歴史・文化

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九州北部


上野焼

 福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる、上野焼(あがのやき)は「文禄・慶長の役」(1592~98年)の際に、加藤清正公に従って帰化した、李朝の陶工、尊階が豊前(福岡県・大分県)藩主の細川忠興候の力添えにより窯を築いたのが始まりとされています。
 上野焼は、大名、茶人、作庭家として名高い小堀遠州が選定した、7つの窯に指定されています。俗に言う遠州七窯のひとつです。一時期は、途絶えてしまったかのように見えた「上野焼」ですが、現在では格調高い洗練された形と現代の感覚をたくみに取り入れ、洗練された優美な作品を数多く生み出しています。

上野焼
  • 小石原焼小石原焼

     小石原(こいしわら)で最初に伊万里から陶工を招いて窯が築かれたのは、江戸初期の寛文5年(1665年)のことです。以来、窯の火が絶えたことはなく、300年以上の歴史を持っています。
     福岡県朝倉郡東峰村の小石原焼は、刷毛目、飛び鉋、櫛描きなどによって表現される独特の幾何学的な紋様が特徴です。素焼きを行なわずに、釉薬を流し掛けます。日本の陶芸界に大きな影響を与えたバーナード・リーチ氏によって「用の美の極致である」と大きく称賛されたことは、陶芸ファンによく知られています。

  • 白石焼白石焼

     佐賀県三養基郡みやき町で焼かれる白石焼は文化3年(1806年)に白石鍋島家が、伊万里から陶工を呼び寄せ御用焼を命じたのが始まりとされています。
     かつては、有田、唐津とともに肥前の代表的な磁器産地として栄えた時期もありましたが、明治維新による藩政の崩壊を境に急速に姿を消していきました。現在では、土鍋、火鉢、水甕、植木鉢などの生活雑器を中心にした陶器が造られています。毎年9月23日の秋分の日をはさんだ5日間には、白石焼陶器祭りが開催されています。

  • 小鹿田焼小鹿田焼

     大分県日田市の山あい、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器が小鹿田焼(おんたやき)です。小石原焼からの流れを汲むこともあり、小石原焼と共通する点が数多く見受けられます。
     小鹿田焼は、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様が特徴的です。また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられています。他の多くの窯と異なり、小鹿田焼の技法は代々長子相続とされ、弟子を取らず、開窯以来の古い手法が受け継がれています。

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九州西部


有田・伊万里焼

 1610年代(豊臣秀吉の時代)、鍋島直茂が朝鮮半島から多くの陶工を日本へと連れてきたのが、日本の磁器製造の始まりです。
 中国や日本の有田で磁器が製造されているころ、遠くヨーロッパではオランダのデルフト焼、イタリアのマジョルカ焼といった厚ぼったい陶器しか作る技術がありませんでした。当時、オランダは中国から大量の磁器をヨーロッパへ持ち込んでいました。しかし、中国で政変が起きると、磁器の輸出が止まり、日本の伊万里湾(佐賀県伊万里市・唐津市)から大量の磁器の輸出が始まります。1650年頃のことです。その際の積み出し港の名前を取り、伊万里焼の名が一般的に使われました。伊万里焼、有田焼と区別をするようになったのは明治以降のことです。伊万里焼・有田焼は日本最古の磁器窯として、世界的なブランドとなっています。

有田・伊万里焼
  • 天草陶磁器天草陶磁器

     天草地方(熊本県)で最も古い焼き物は慶長年間(1596~1615年)頃の楠浦焼と言われています。
     豊臣秀吉の時代(1537~98年)に、連れ帰った朝鮮人たちに作らせたとされています。
     磁器の作成に適した適度のアルカリ性がある天草の陶石は、現在でも全国の優れた窯で使われていて、地元においては、1650年頃に内田皿山焼磁器が焼かれており、以降高浜焼、水の平焼と地道に陶磁器が造り続けられました。
     現在では、11の窯元で、多種多様な天草陶磁器が造られています。

  • 波佐見焼波佐見焼

     約400年前、長崎県東彼杵郡波佐見町の波佐見焼(はさみやき)は当初、施陶器の生産が主でしたが、やがて青磁と呉須(藍色)で絵付けされた草花文などを描いた、白地にくすんだ染付が主流となりました。
     江戸時代から、大衆向けの食器を巨大な連房式階段状登窯で大量に焼いていました。江戸後期には染付が日本一の生産量になり、波佐見焼は当時、日本を代表する磁器産地となりました。その出荷港の名から「伊万里焼」、明治以降は出荷駅の名から「有田焼」として流通されていました。その後、伝統的工芸品の指定などによって波佐見焼と呼ばれるようになり、その名称が知れ渡るようになりました。

  • 唐津焼唐津焼

     楽焼、萩焼と並ぶ日本三大茶陶器のひとつです。茶陶とも呼ばれ、昔から多くの茶人に愛されてきました。
     唐津焼は、佐賀県唐津市北波多の岸岳で始まったと云われ、朝鮮半島から伝わってきた技法を残しています。
     絵唐津、斑(まだら)唐津、黒唐津、朝鮮唐津、粉引唐津など多くの種類がある唐津焼ですが、飾らないシンプルな絵付け、温かみのあるさわり心地の良さが特徴です。
     現在でも50ほどの窯元があります。

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九州中部


小代焼

 細川忠利が寛永9年(1632年)に豊前国(福岡県・大分県)から肥後国(熊本県)に転封となり、これに従った陶工が焼物師を命じられ、小代焼(しょうだいやき)を始めたと云われています。現在では、熊本県の荒尾市、玉名郡南関町、熊本市など主に県北部で焼かれています。
 原土は荒尾市の小岱山付近の粘土層から採取。鉄分や小石粒を多く含んだこの粘土は、小代粘土と呼ばれ、小代焼の特徴であるざらりとした肌合いは、この粘土から生まれます。天保7年(1836年)に山奉行の瀬上林右衛門が、産業振興策のため瀬上窯を築き、その後野田家、近重家へと継承されて現在の小代焼に至っています。

小代焼

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九州南部


薩摩焼

 豊臣秀吉の命により慶長の役(1592~1598年)に参加した島津義弘が朝鮮の陶工を連れて帰り、この陶工たちが薩摩焼の発祥の祖となります。
 薩摩(鹿児島県)に上陸した朝鮮陶工は、東方丘陵地に朝鮮式蛇窯の串木野窯を築きます。薩摩焼最初の窯で、現在の苗代川系となります。その後、薩摩の各地に窯元が相次いで築かれます。薩摩焼は、白薩摩と黒薩摩の2つに大別されます。黒薩摩は、庶民的な焼き物として広く使われています。これに対し白薩摩は、藩主御用達として発展してきました。上品で繊細な趣を持ち、抹茶椀、香炉、香合、花瓶などが人気です。

薩摩焼
  • 種子島焼種子島焼

     種子島(鹿児島)には中国から伝えられたとされる能野焼(よきのやき)があり、江戸時代から明治中期の約180年間にわたって種子島の住吉能野で焼かれてきました。この住吉能野で焼かれていた焼き物を、昭和46年に復興したのが種子島焼です。
     種子島焼は施釉を行わない焼締めだけによるものが多く、重厚感と共に素朴な味わいを見せてくれます。
     現在では、種子島の土と風土に魅せられた陶芸家達が、伝統にこだわらない自由な発想で多くの窯元を開いています。

  • 小松原焼小松原焼

     鹿児島の薩摩焼の苗代川系の流れを汲むのが小松原焼です。万延元年(1860年)に、宮崎県都城市の小松原で始まりました。小松原焼はその後一時中断されましたが、昭和46年に宮崎市で再興され、その技法が受け継がれています。小松原焼の特徴は、苗代川系の伝統的技法を継承した「蛇蠍(だかつ)」のほかに、釉薬の研究によって作り出された独特の「鮫肌」 「鈍甲肌」で生まれる肌質に特徴があります。力強く、重厚なため、花器・つぼ類から日常生活用品に至るまで、さまざまな用途に利用されています。

  • 小峰焼小峰焼

     小峰焼は、1600年頃から宮崎県延岡市から始まった焼物で、戦時中、一時途絶えましたが、戦後先人達の遺志を継ぐ人たちの努力によって復興しました。
     主な技法としては、焼き締めや灰かぶりなどの渋みのあるものや、象嵌(ぞうがん)・練り込みなどシンプルで都会的な雰囲気を持つ焼物など、宮崎の風土に溶け込んだ作品が、それぞれの窯元から生まれています。

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