歴史・文化

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九州北部


博多織

 博多織は、福岡県福岡市の博多地区で特産とされる絹織物です。江戸時代には、福岡藩黒田氏から徳川将軍家に献上された歴史を持つことから、最上の物を"献上博多"などとも呼んでいます。約760年前、一人の僧と若い博多商人が宋へ旅立ち、織物の技法を習得、帰国して代々受け継がれたのが博多織の始まりです。
 さらにその250年後には、宋へ渡った商人の子孫が再び明へと渡り、さらに織物の技法を研究。琥珀織のように生地が厚く、浮線紋や柳条などの模様の浮出た厚地の博多織を作り出しました。細い経糸を多く使用し、太い緯糸を筬で強く打ち込み、経糸を浮かせて柄を織り出しているのが特徴です。

博多織
  • 佐賀錦佐賀錦

     佐賀県の佐賀錦は江戸時代(1603年~1867年)末期頃に作られたとされています。
     明治時代に入り佐賀錦は一時途絶えてしまいますが、佐賀県出身の大隈重信候がこれを惜しみ再興すると、旧華族の間で評判となりました。その後、明治43年(1910年)にロンドンで開かれた日英大博覧会に、当時はまだ鹿島錦と呼ばれていたものを「佐賀錦」と名付けて出品。一気にその名声を海外にまで広めることとなりました。
     網代型や卍繋ぎ、菱型などの幾何学模様と、気品のある華やかさと和紙を使った独特の風合が特徴です。

  • 久留米絣久留米絣

     久留米絣は、天明8年(1788年)に久留米(福岡県)で生まれた井上伝が白糸をくびり、藍で染め、飛白模様の織物を作る方法を考案したことから始まりました。その後、多くの人々の創意工夫が加えられ、現在見るような久留米絣が完成しました。約200年の歴史を持つ久留米絣は、かつては主染料である藍(くすも)も久留米で栽培されていました。しかし、久留米絣の生産が最盛期を迎える明治初年ごろから藍の生産量が追いつかなくなり、阿波(徳島県)産の藍を使用。現在に至っています。久留米絣の魅力は、その複雑な柄です。千変万化の柄を浮き出せるように織り込むことができます。

  • 博多人形博多人形

     博多人形の発祥については諸説ありますが、約400年の歴史を持つと考えられています。
     福岡県福岡市近郊の粘土で作られている素焼きの人形で、原型を作って石膏で型を取り、型に粘土を押し詰めて作ります。人形の形になった粘度を乾かして焼き上げ、貝の粉や絵の具で着色します。
     博多人形は美人や歌舞伎、能などが題材として選ばれることが多く、最近では干支の人形も人気があります。素焼きに着色する落ち着いた色彩と、独特の繊細さが博多人形の魅力です。

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九州西部


長崎ビードロ

 長崎のガラス製品は、長崎ビードロと呼ばれています。ポルトガル語でガラスのことをビードロと言います。鎖国時代にあって唯一、海外に開かれていた長崎にポルトガルから渡って来たガラス工芸が長崎ビードロの始まりです。ビードロは吹きガラスのことで、熱く溶かしたガラスをパイプの先に付け、シャボン玉を膨らます要領でおおよその形を造ります。その後、冷えて固まってしまうまでの短い時間を利用して、さまざまな工程をこなします。長崎ビードロを使用した製品には、美しい藍色が特徴のグラスや"長崎ちろり"、吹くとぺこんぺこんという素朴な音を出す"ぽっぺん"などがあります。

長崎ビードロ
  • 長崎ステンドグラス長崎ステンドグラス

     長崎県長崎市の大浦天主堂には、国宝に指定されている、日本最古とも云われるステンドグラスがあります。ヨーロッパから伝わり、今もその優雅さが魅力のステンドグラスは、着色ガラスの小片を使い、絵や模様を表現しています。
     日本でも明治後半から作られるようになり、教会堂や西洋館の窓の装飾に多く用いられています。その後日本の近代建築の普及と共に次第に増加し、2007年「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産暫定リストに載ったことから、長崎ステンドグラスの遺産価値も高まってきています。長崎にはステンドグラス工房や教室が沢山あり、気軽にステンドグラスの製作体験が出来ます。

  • 壱岐鬼凧壱岐鬼凧

     壱岐(長崎県)の島に残る鬼退治の伝説により、昔から桃の節句頃に行われているのが「壱岐鬼凧(おんだこ)」揚げです。その昔、「鬼ヶ島」とも呼ばれた壱岐には数百匹の恐ろしい鬼が住んでいて、村人たちを困らせていました。そこに、豊後の国から百合若大臣という武将が天皇の命を受けて島民を苦しめる鬼を退治にやってきました。鞍馬山の天狗からもらった鉄の扇で鬼を退治した百合若大臣は、「壱岐の島の枯れ木に花が咲いたときと、いり豆に芽が出たときに限って降りて来い」と鬼たちに言います。その鬼たちが降りてこないように、揚げるのが「壱岐鬼凧」です。はねた鬼の首が、百合若大臣の兜に噛み付いた絵が描かれています。「壱岐鬼凧」は魔除けとして家に飾られます。

  • べっ甲細工べっ甲細工

     最初長崎にべっ甲細工が入ってきたのは、ポルトガル船によってです。
     その後、オランダ船もべっ甲製品を運んで来るようになり、べっ甲製品の原料である玳瑁(たいまい)も長崎に陸揚げされるようになりました。唐人から「べっ甲細工」の技法を学び、長崎で櫛などのべっ甲製品が作り出されるようになりました。
     長崎のべっ甲細工は、ロシアやヨーロッパへ輸出されるようになり、長崎は、べっ甲細工の世界の名産地として知られるようになりました。
     べっ甲細工には、髪飾りの他、指輪、イヤリング、ブローチなどがあります。

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九州中部


別府竹細工

 マダケの生産が日本一の大分県で発展したのが竹細工です。別府市(大分県)の竹細工に関する最古の記録としては、「日本書紀」に良質な篠竹を使い茶碗籠を作ったとの記述が残っています。
 別府竹細工では県内産の良質のマダケを主材料とし、さまざまな竹製品が作られています。花籠、盛かごを中心に、青竹を使った日用品から、バッグや、インテリア照明まで幅広い製品に竹が利用されています。

別府竹細工
  • 肥後象がん肥後象がん

     肥後象がんは、寛永9年(1632年)肥後国(熊本県)主として入国した細川忠利侯に仕えた林又七が、鉄砲や刀の鐔に金などを嵌め込んだのが始まりとされています。
     江戸時代になると、この林家のほかにも平田家、西垣家、志水家、神吉家などにより、金などを使い肥後象がんを施した肥後鐔の名品が数多く残されています。
     明治9年(1876年)の廃刀令以降は、装身具や装飾品に肥後象がんを使用することに転じ、ブローチや小箱、置物といった日常生活の変化に対応した製品が作られています。

  • 人吉・球磨家具人吉・球磨家具

     熊本県の人吉・球磨地方では、昔から豊富な木材を使った木工業が盛んでした。現在も、いっさい釘を使わない木組工法で、重厚で長い間使える家具が作られています。
     人吉・球磨地方の家具は、基本的に一枚板を使って作られています。
     鉋と鋸とノミだけで、金釘は使用しません。すべて木を組んで接合してあります。木口を直角やT字形、三角形に形取り接合する剣留工法という技術が使われています。組み上がるとニカワで接着します。釘を使わないので、木材の傷みが少ないのが特徴です。

  • 山鹿金灯籠山鹿金灯籠

     熊本県山鹿市で作られている灯籠は、山鹿灯籠と呼ばれ、室町時代から伝わる伝統工芸品は、金灯籠に始まり、神殿造り、座敷造り、城造りなど様々な様式のものが作られています。現在では、山鹿灯籠まつりのときに頭に乗せて踊る"金灯籠"がもっとも有名です。
     山鹿金灯籠の作り方には一貫した鉄則があります。木や金具は一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られます。また、柱や障子の桟にいたるまで中は空洞になっています。灯籠としての美しさを追求するために、城や神殿などの建物は一律に縮小したミニチュアとしてだけではなく、縦横のスケール感を独自に工夫して作られます。熟練した灯籠師の技術が、見た目にも見事な紙の芸術品を生み出します。

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九州南部


高千穂神楽面

 毎年11月中旬から2月上旬にかけて行われる「高千穂の夜神楽」(宮崎県西臼杵郡高千穂町)で使われる神楽面です。神楽は、彦舞、太刀神添、岩潜、七貴人、御神体、雲下しなどの三十三番からなりますが、多くの舞で面が使用されます。
 高千穂神楽面は神楽の面としてだけではなく、邪気を祓い幸せを招く縁起物として知られています。木の香りのよいクスノキを使い、彫刻機械で粗削りした後は、すべて手作業で仕上げられるので、ひとつひとつ異なる表情を持っています。

高千穂神楽面
  • 都城大弓都城大弓

     宮崎県の都城地方では、古くから大弓が生産されていました。
     現存する記録の中でもっとも古いものは、江戸時代文化・文政から天保(1804~1830年)にかけて当地を記録した「庄内地理志」です。都城市志和地、金田地区で弓が作られていたことが記述されています。
     都城大弓(だいきゅう)は質実剛健、実践性にすぐれた薩摩弓の流れを汲みます。竹弓の持つ曲線はとても美しく、次代に引き継ぐべき伝統を持つ工芸品として注目されています。
     競技用の弓でありながら、国の伝統的工芸品の指定を受けています。

  • 奄美大島紬奄美大島紬

     奄美大島紬(あまみおおしまつむぎ)は、鹿児島県の奄美群島の奄美大島の特産品です。手で紡いだ絹糸を泥染めしたものを手織りします。
     奄美における養蚕の歴史は古く、奈良朝(710~793年)以前から手紡糸で褐色紬が作られていたようです。
     現在、奄美大島紬と呼ばれるものの条件は、絹100%、織る前に色付けをする先染手織り、平織であることです。
     先染め平織りなので裏表がなく、手機で経緯絣及び緯絣を絣合わせして織上げてあるので、軽く着やすいのが特徴です。

  • 薩摩切子薩摩切子

     薩摩藩(鹿児島)27代藩主島津斉興は薬品などに耐え得る器の必要に迫られ、弘化3年(1846年)にガラス器の開発製造を始めました。その後、28代藩主斉彬の命により 嘉永3年(1851年)に中村騎射場近傍のガラス釜で 「紅ガラス」 創製に成功しました。これが、「薩摩切子」の始まりとされています。
     その後、文久3年(1863年)薩英戦争などがあり、一旦は「薩摩切子」は消えてしまいます。よって、薩英戦争以前に作られた「薩摩切子」は残存が少なく、幻の切子と言われています。そして、約120年を経た昭和60年(1985年)、斉彬公ゆかりの地で再び復元されたのが現在の「薩摩切子」です。クリスタルガラスに色ガラスを溶着させてあり、細かいカットが特徴です。

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