黒田官兵衛と九州

日本号

名槍日本号の歴史

日本号倶利伽羅竜
黒田武士の銅像、槍の長さが 実物大の為異様に長い
日本号穂先
日本号

穂先・79.2cm、全長・321.5cm、総重量・2.8kg、刃の中央の溝に倶梨加羅龍の浮き彫りがあります。天下三名槍、御手杵・日本号・蜻蛉切に数えられています。

持主の変遷

この名槍は代々朝廷が所有していましたが、室町時代に時の「正親町天皇」(おうぎまちてんのう)より室町幕府15代将軍・足利義昭に下賜されました。 その後、織田信長・豊臣秀吉へと時の権力者の手に渡り、豊臣秀吉から「賤ヶ岳の戦い」での一番槍・一番首の武勲に対しての褒美として福島正則に5,000石とともに「日本号」が下賜されました。 これよりは黒田節で有名になった経緯で、母里太兵衛の手に渡りましたが、その後は下記のような変遷の末、現在「福岡市博物館」に展示してあります。

1.朝鮮出兵の折、窮地を救ってもらったお礼として母里太兵衛が後藤又兵衛に与えました。
2.一六〇六年後藤又兵衛が黒田長政との不仲のため、大隈城主を辞めて浪人になった時、日本号と家紋が娘婿の野村祐勝に譲りました。
3.代々鯰田にあった野村家に伝わっていました。大正時代に同家から離れ大野仁平氏の手に渡りましたが、
        玄洋社の頭山満の斡旋で安川財閥の安川敬一郎が2億円以上の大金をはたいて買い取りました。
        安川敬一郎は黒田藩士・徳永省易の四男で飯塚の相田炭坑や高雄炭坑の成功で財をなし、安川財閥を築き戸畑に設立した明治専門学校がのちに九州工業大学となり、
        情報工学部が高雄炭坑の跡地に開設されることとなりました。
4.安川敬一郎は買い取った「日本号」は福岡の地を離れるべきでないと黒田家に寄贈しました。
5.昭和五三年に黒田長禮氏夫人・黒田茂子氏から国宝の「金印」と共に「日本号」は福岡市に寄贈され、
        現在は福岡市百道浜にある福岡市博物館に展示してあります。また母里太兵衛の菩提寺・麟翁寺(嘉麻市大隈)には母里太兵衛の墓と日本号のレプリカがあります。
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