「それからの武蔵」の原点はやはり小次郎との試合(巌流島の決闘)にある。当時、試合を許可したのは小倉城主・細川忠興(三斎)=後の八代城主である。試合の後見役は家老松井興長であった。
武蔵の「それから」はこの二人をキーマンにして動き流れる。養子・伊織の関係もあって、後に、武蔵は小笠原藩の一員として「島原の乱」に出陣する。その後、「就職依頼」の手紙を、かねて昵懇の松井興長(その時は三斎と共に熊本に居た)へ出す。これがきっかけで、時の熊本城主・細川忠利から客分として迎えられる。寛永17年、武蔵は熊本城下の人となり、熊本は終の棲家となる。僅か5年間であるとはいえ、武蔵の熊本でのゆかりの地を訪れよう。すべて、本物、史実である。資料も残る。
巌流島をふり出しに、本物の小倉碑文(吉川英治も参考にした)を学び、終焉の地「霊巌洞」までを、丹念に学び知る。
「武蔵は熊本で武蔵になった」といわれる。その熊本では、何があったのか。
その時の熊本城下は?武蔵はどう遇されたのか?興味は深いところだ。
いまも、熊本城下は武蔵ゆかりのものを残している。旧居跡、使用の井戸、二つある武蔵の墓、最後を迎えた霊巌洞は圧巻。武蔵の弟子・豊田又四郎が住んでいた八代市にゆかりが多い。市の博物館には武蔵の手紙がある。(当時の八代城主は、あの松井興長である。)武蔵が訪れた山鹿温泉も。
温泉といえば武雄にも武蔵が立ち寄った。使用の井戸も残されている。武雄と武蔵のかかわりを研究してみるのも興味深い。
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