九州のキリシタン紀行なら遠藤周作の歴史小説「王の挽歌」を携えて歩きたい。九州を第2のふるさとのようにしていた遠藤のこの土地とそこに繰り広げられた歴史への想いがよく現れている。歴史から消し去られた事実が行間から立ち上がってくる。
豊後の名門守護・大友家の統領として、内紛に悩まされながらも、北の大内、毛利と戦い、北九州六国に領土を広げた大友宗麟。戦国の世に信仰というもうひとつの王国を求めた彼の生き方は、我々に、なにか示唆を与えないだろうか。
木崎原の合戦で島津氏に敗れた伊東氏は、いわゆる「伊東氏の豊後落ち」(うんちく参照)によって、豊後の宗麟のもとに。そのなかには、後にローマ法王に謁見することになる「天正少年使節団」の正使、伊東マンショの幼い姿があった。その時、わずか8歳。
そして、その頃…
「臼杵には…、小さいながらも修道院(ノビシャード)が作られた。この学校でヨーロッパから来た宣教師や修道士は日本語を学び、日本人はキリスト教を学ぶのである。…府内にはノビシャードよりもやや高級な学校(コレジオ)も設立され、日本人はここでラテン語を学び、ヨーロッパ人修道士は日本語を学んだ」(遠藤周作「王の挽歌」新潮文庫より)「宗麟はこの頃、臼杵に日本のうちで最も美しい教会を建設していた」(同前)
また、フロイスは次のように伝えている。「布教は府内とその周辺、及び臼杵では目ざましい発展をとげた」。府内のコレジオでは生徒たち156人が、府内に近い町々でも2000人以上の日本人が受洗した、と。
この旅は、伊東氏の豊後落ちの足跡をたどるとともに、九州のキリシタン大名である大友宗麟のキリシタン史跡をたどる旅である。そして、そこから自分の「王国」を探し出す一歩になれば、これ以上の旅はない。
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