川端康成は昭和27年10月に九重に旅をし、翌28年に『波千鳥』を発表した。代表作『千羽鶴』は亡き恋人の息子・菊治に惹かれる女性・太田夫人を美しく描いた話題作で、『波千鳥』はその続編。川端康成は鳴子川河畔にある筌の口温泉に泊まり、飯田高原や法華温泉の地を歩いて情感ある文を綴った。九重町田野の一角に文学碑が建っている。
醍醐天皇の頃、少納言清原正高と醍醐天皇の孫に当たる小松女院の仲がうわさになり正高卿は豊後国へ、小松女院は因幡国へ流されてしまう。正高卿を忘れられない小松女院は、侍女、従者を従え、豊後を訪れたが正高の行方はしれない。流浪の末、この地にたどりついた小松女院は、古いほこらの下に清水のわく泉に女性の魂である手鏡を投じて再会できるように祈った。
西南戦争の時、熊本士族で薩軍に加わったことが理由で阿蘇に身を隠す父娘。白菊の父は猟に出たまま行方不明となった。父を捜して阿蘇の山深をさまよう。その孝行な少女の物語である。その足跡は長陽、白水、久木野など阿蘇各地に及び、いまだに村民の愛慕の的になっている。南阿蘇村黒川、数鹿流ヶ滝を望む地に白菊の碑が建っている。
明智光秀の娘で細川忠興の妻。逆臣の娘として山崎合戦の後幽閉され、また、関ヶ原の際に人質を拒み、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣に刺殺させて生涯を閉じた悲劇の女性。熊本の「立田自然公園」 には夫忠興と並んで彼女の墓がある。
壇ノ浦の合戦に敗れた平家の人々を追い、武士の女房や姫君たちはこの地にたどり着いた。しかし疲れきった女性たちが辺りを見まわすと、山のあちこちに白いコブシの花が。その白い花を源氏の討伐隊と思い、女性たちはここで悲しみに泣き崩れ、泣いているうちに石になってしまったと言われている。
那須与一の弟の那須大八郎は幕府の命を受けて椎葉に落ち延びた平家を追っていく。しかし大八郎は、そこで平家の姫君・鶴富と恋仲になり、大八郎は武士を捨てて共に暮らそうとするが幕府から帰還の通達を受けてこの地を去ってしまった、有名な悲恋物語。