「早春賦」や「故郷を離るる歌」の作詞者で、国文学者であった吉丸一昌(1873〜1916)は晩年まで童謡や、文部省歌を数多く手がけた。記念館「早春賦の館」は、吉丸の生誕120周年を記念して、生誕地 大分県臼杵市に建てられた。武家屋敷の情緒が残る館内には自筆の楽譜や原稿、遺品など貴重な品の数々が展示されている。
瀧廉太郎「荒城の月」の舞台岡城趾。春は桜、秋は紅葉の景観が素晴らしい名所。岡城は文治元年(1185)に緒方三郎惟栄(これよし) が源義経を迎えるために築城したと伝承されている。天正14年(1586)島津軍三万七千の大軍を一千の兵で攻守した堅固な山城を称え別名「臥牛城」(がぎゅうじょう)とも呼ばれている。
昭和7年、与謝野鉄幹・昌子夫婦は別府・久住をまわり、内牧温泉の永田家(現・蘇山郷)に泊まった際に詠んだ歌。
霧の色ひときは黒しかの空に
ありて煙るか阿蘇の頂(鉄幹)
うす霧や大観峰によりそひて
朝がほのさく阿蘇の山荘(晶子)
昭和34年歌碑が作られた。
熊本市電停「洗馬橋」では知っている人もいるだろう「肥後手まり唄」…あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ くまもとさ くまもとどこさせんばさ せんば山にはタヌキがおってさ…のメロディが流れてくる。この歌の発祥地であり橋の名も由来して「せんば橋」。下を流れる坪井川にはエビが山にはタヌキがいたのであろうか、橋の欄干にはタヌキとエビの像がある。
「夏の四月に、景行天皇が芦北の小島にとどまって食事をされたときに水がなく、小左という者が天神地祗に祈ったところ、たちまち清水が崖のほとりから湧きだしたので、その水を汲んで奉った、この故に水島という。」(日本書紀)が名の由来。万葉集にも長田王が、この地を訪れて詠んだ2首がおさめられている。平成16年
10月に熊本県指定名勝に指定。
廉太郎は東京音楽学校(今の東京芸術大学)卒業後ドイツに留学したが病気で帰国、24歳で世を去った。廉太郎が12歳から東京音楽学校に入学するまでの約2年暮らした旧宅を復元整備した「瀧廉太郎記念館」。館内には手紙、楽譜、写真など資料50点を展示してある。