(あすなろ書房刊 石の九州 源弘道著)
一辺一メートル前後の方形の切石が整然と連なっている。山すそ近くから山腹をはいあがり、尾根を越え、谷を渡り、山頂近くまで上りつめ、また下り尾根を越え谷を渡って山を一周する。いうならば山に施した石の鉢巻である。
短いところでも一・九キロ、長いところでは三キロを越える。小型の万里の長城とでもいうべき壮観さだ。
列石は自然石もあるが、多くは方形に加工し、上端をそろえ、さらに外面にもノミを当てて平滑に仕上げた場合も多い。谷を渡る部分では、城壁のように大小の切石を積み上げている。その一部や地下に水門(通水口)を設けている。
水門わきや列石の途中数カ所には、列石内部への通路と思われる部分があって列石がとぎれている。
この列石が見られる山は、百メートルに満たぬものから千メートルに近い山まで、さまざまだが、以上のような列石の構成はほぼ一致している。これが世にいう神寵石だ。
今日まで九カ所確認されている。福岡県が一番多く、高良山(久留米市)、女山(みやま市)、御所ケ谷(行橋市ほか)、鹿毛馬(飯塚市)、雷山(前原市)、杷木(朝倉市)の六カ所。つぎに佐賀県の帯隈山(佐賀市)、おっぼ山(武雄市)、それと山口県の石城山(光市)だ。山口県の一例を除き、すべて九州の北部に集中している。
いつ、だれが、何のためにつくったのか。だれしもが抱く疑問だが、いっさい記録はない。
高良山の場合は鬼たちが築いたという伝説がある。とても人間わざではないと見たのだろう。
女山は、三世紀の倭(日本)に君臨していたと魏志倭人伝にある邪馬台国の女王・卑弥呼の居館あとと伝承れている。女山が、邪馬台国によく比定される山門(やまと)郡にあることと、神籠石の神秘的なたたずまいが生んだ発想だろう。ただ他に同種の切石による遺構がない三世紀のものと見るには無理がある。
鹿毛馬の場合は、馬の放牧場といい伝えられてきた。列石を牧場の境界柵とでも想像したのだろう。
古くから城郭跡という見方があったことは石城山、筒城(つつき=雷山神籠石の別称)という名が示している。神籠石という名は、列石を神域を示す標識石と見ての呼び名である。高良山の場合、列石内に高良大社があったことと、その不思議な構成からきた。