鍋島藩士の武士の心得の精神的筋金としたもので、流派ではない。
藩士の山本常朝(1659~1715)の談話をまとめたもので全11巻1340項ある。
葉隠の由来は「山里の木の葉隠に聞き、ひそかに書き留めたもの」による。従って、表に現れない、出さない影の奉仕、「主君への忠誠」は「忍ぶ恋に通じる秘めた情熱」であることと説き、一方では「忠」は死物狂いの行動の中から生まれるものであるとも説く。
佐賀鍋島藩は九州の雄、龍造寺氏の中心家臣であった。従って鍋島家は主君と家臣との情感は睦まじく家族的でさえあった。秩序維持のためには君臣の教理が必要であった。
葉隠は、まさにそれであった‐ と史家は説いている。従って葉隠に流れるものは鍋島藩主絶対主義であった。
そこから必然的に「死」が考えられてくる。哲学的な概念であり、通常誤って伝えられる「武士とは死ぬことと見つけたり」とは、本質は異なっているのだが、戦時中は軍に乱用され、特攻精神や玉砕、自決を推奨する根拠とされたこともあったが、これは乱用、誤用であった。
さらに、詳しく読むと、現代社会にも通じる処世術まで幅広く述べられており、生活に根ざした武士の処世術といえる、宮本武蔵の「五輪書」と肩を並べる哲学書である。
いずれにしても、鍋島藩士の忠誠心を養成する藩のマニュアルであったことは否めない。江戸中期になると、世の中も落ち着きを取り戻し、各藩の学者がこぞって藩主擁護の説を展開するようになっていく。
難解な「葉隠」であるが、佐賀の伝統工芸品「佐賀錦」の美しさは、勤勉、克己、献身から生れたもの、即ち葉隠の心を表しているとされている。
示現流は、もと天真正自顕流と称し、十瀬与三左衛門尉長宗が飯篠若狭守盛信に天真正伝神道流を学んだ後、さらなる妙理を求めて香取神宮に参籠し、鋭意工夫の末、極意十二打の神授を賜りて号したもの。十瀬長宗の弟子に金子新九郎威貞、その弟子に赤坂弥九郎政雅がおり、赤坂弥九郎は父の仇討ちを成した後、出家して善吉と号して曹洞宗万松山天寧寺の四世住持となった。この善吉和尚に師事したのが、示現流の流祖東郷重位である。
天正十五年(1587)七月、島津義久公に従い上洛した重位は、天寧寺において善吉和尚と出会い、弟子入りして半年余、独り研鑽を積み、薩摩に並ぶ者無き剣の達人となったのである。
そして、慶長九年(1604)には、第十八代島津家久公の命により、タイ捨流師範東新之丞と立ち会い、これを打ち破って家久公に認めらるところとなった。家久公は重位を厚遇し、重位の兵法が薩摩の地に末永く栄えんことを欲して、他国へ漏らさぬよう、流儀を絶やさぬよう常々語られたと言われている。また家久公は、重位と親交の有った臨済宗大竜寺の名僧、南浦文之に命じて、新しい流儀の名を考案させ、『観世音菩薩普門品』の経文にある「示現神通力」の句に因んで、天真正自顕流を「示現流」と改称、ここに薩摩独自の兵法が誕生することになった。
示現流は、その後も代々の藩主に重く用いられ、殊に第二十七代島津斉興公により「御流儀示現流兵法」と称することを命じられ、示現流は、薩摩の士風形成に大きな役割を果たした。
示現流兵法所HPより(http://www.jigen-ryu.com/)