「旅する長崎学」キリシタン文化・(企画・長崎県、制作・長崎文献社)から引用しました。
五島列島の北に位置する野崎島。今は、鹿だけが住む無人島となったが、以前は大村藩から移り住んだキリシタンが住む集落、野首と瀬戸脇があった。明治の弾圧で全員が捕えられた。釈放されてもどってくると貧困の生活がまっていたが、誰はばかることなく祈りを捧げられるので、島の人々は教会堂の建設にたちあがった。しかし建築には費用がかかる。となりの島の小値賀の有力者に借金を申し込んでも、教会建設のためには協力が得られない。そこで人々は共同生活をし、大人は1日2食にきりつめ、キビナゴ漁で資金を積み立て、明治の末にようやく発注できた。ところが、大工たちは、貧しい島には分不相応の立派な教会なので、島の人々は教会が完成しても金を払わず自分たちを皆殺しするのではないかと心配したという。
1908年、鉄川与助設計の煉瓦造の野首教会が完成した。高度成長下、現金収入に乏しい島での生活が困難になり、信者は島を離れたが、教会は小値賀町の管理により、整備・公開されている。
田平には、生活するのに手狭となった黒島や外海から移住してきた信徒が多く住む。パリ外国宣教会の2人の神父ラゲとド・ロが自費で買い取った土地に、信徒たちを移住させたのが最初であった。
移住者は、掘立小屋にはじまり草茸の屋根やド・ロ壁の家をつくり、土地を改良しながら開墾をはじめた。ゼロの状態から生活を築き上げた信徒たちは、入植開始の30数年後、積み立てた資金に、フランス人匿名の寄付をくわえ、総出で労働奉仕をし、1918年、鉄川与助設計による煉瓦造の荘厳な教会をつくった。建設途中、作業場が崩壊して、2名の犠牲者をだす惨事もあった。煉瓦の目詰めに使う石灰をつくるために、平戸や上神崎で集めたミナという貝殻を焼いた跡が、教会の前に残っている。
教会は、上五島中通島の奈摩湾を望む小高い丘の上にたつ優美な煉瓦造の建物。宣教師たちは、青砂ヶ浦を、迫害が終わった後の上五島の活動の拠点とした。この地の最初の教会は、山手にあったが、1889年に違う場所に建てかえられ、1910年、鉄川与助の設計で現在地につくられた。50戸あまりの信者が建設費を拠出し、全員での労働奉仕がおこなわれた。まだ海辺から建設現場までの道路はなく、階段を人力で石やレンガなどの資材を運んだ。女性たちも煉瓦をかつぎ、子どもも手伝った。
10年後、教会にはアンジェラスの鐘がつけられたが、第2次世界大戦中に没収されて奈摩地区の警戒警報として使われた。戦後、青砂ヶ浦地区の青年たちが鐘を取り戻しに行ったという。
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