「弥生時代の福岡平野にあったという「奴(な)国」の王が中国皇帝から贈られたもので、「漢倭奴国王」の文字が彫られている。中国の「後漢書」に西暦57年、「倭奴国が貢を奉じて朝賀した」という記述があり、これを裏付けるものとなった。黒田家に伝わり、1978年に福岡市に寄贈された。
ほとんどの人が教科書などで目にしたことがあるのが「志賀島の金印」。日本で最も有名な国宝のひとつと言っても言い過ぎではないこの宝物は九州・福岡で発見された。
金印発見については「1784(天明4)年、博多の志賀島で、農夫甚兵衛によって発見された。印面には「漢倭奴国王」と五つの文字が彫られていて、鈕は蛇がとぐろを巻いた形をした蛇鈕である。大きさは総高2.236㎝、重さは108.729g。印面の一辺は平均2.347㎝で、これは漢時代の一寸にあたる。」と言うもの。
この金印は何か、なぜこの地で見つかったのか?
周囲の耳目を集め、国宝にまでなった経緯には江戸時代の儒学者亀井南冥という人物を抜きにしては語れない。
南冥は1743(寛保3)年筑前国姪浜村(現・福岡市)で生まれた。父は聴因という村医。14歳で肥前国蓮池の学僧大潮に師事し、京都に赴いたのち大坂で永富独嘯庵の門に入る。
南冥は小石元俊、大田亨叔とともに独嘯庵の三傑と称せられる。その後帰郷して、父とともに福岡城下唐人町に移って開業、諸国から多数の入門者が集まるようになった。福岡藩は南冥を士分に取立て、西学問所(甘棠館(かんとうかん))をつくり教授に任命した。ちなみに東学問所を修猷館といい、館長は貝原益軒の高弟、竹田定直の孫の定良が務めた。
亀井南冥が館長になって4日後に志賀島の金印発見の報がもたらされた。いったい何のためにどこで誰が造ったのか?この文字は何と読むのか?誰もが首を捻った。
鑑定を依頼された亀井南冥は中国の史書「後漢書・倭伝」に書かれたある記述を指摘した。史書によると、「後漢の光武帝が57(建武中元2)年に倭国に印を与えた」とある。この印はそれに記されている印に該当するという。かくして金印はたちまち市中の話題となり、その所轄についてもそのような貴重なものであるなら藩に届出をするようにと達しが出たのである。発見者の甚兵衛には白銀五枚が与えられ、金印は黒田家所蔵のものとなった。時代が下り、明治になると国宝に指定され、昭和29年の再指定で改めて第一級の国宝となり、現在福岡市博物館で展示されている。
ともすれば謎のままであったかもしれない金印に、歴史的価値を見出した南冥の功績と学識ははかりがたい。文字の意味、なぜ志賀島にあったのか等々、平成の今日になっても金印はまだ様々な謎をまとい、考古学的な魅力を放ち続けている。