約30万年前の更新世中期から後期にかけ、阿蘇外輪では活発な火山活動がおこり、4回にわたって激しい噴火がおこったといわれる。その時、大量の噴出物が天に向かって吹き上がり、その噴出物は凄まじい勢いで九州一円に飛び散った。この溶岩が冷やされて固まったのが溶結凝灰岩である。(その後阿蘇はカルデラが出来、現在の阿蘇のかたちになった) また、溶岩であるこの石は造作しやすいことで重宝された。古代では主に石棺の材料として使われた。奈良県橿原市の「植山古墳」(推古天皇の陵とされる)の家型石棺は熊本県の阿蘇溶結凝灰岩。
日本の磨崖仏の場合、制作年代、作者、スポンサーがはっきりしている例はまれだ。文献記録があるのは、大野寺の1209年くらいだろう。 九州の場合も、臼杵・ホキ磨崖仏の頭上に位置する五輪塔に平安末期の1170年、清泉寺、清水(鹿児島県川辺町)、岩堂(同県横川町)の各磨崖仏に、鎌倉時代の1250年、1296年、1335年の刻銘があるだけで文献記録はない。だが九州で磨崖仏が盛んに造営されたのは平安後期から鎌倉期にかけてと見られている。 そこで次のような時代的背景があげられてくる。
①この時代に高まった末法思想の影響で、材質的に弱い木彫仏や金銅仏よりも、永遠の生命を持つかに見える磨崖仏への感心が強まった。
②もっぱら山岳地帯に寺院や霊場を求めた天台宗、真言宗などの密教が興隆し、地方に教勢を伸張していた時期にあたる。
③原始的な山岳信仰と密教系仏教が結合し、この時代から活動が目立つ修験道(山状)の所産ではないか。
九州、とりわけ豊後地方を磨崖仏のメッカにした決定的原因、それは何といっても、この地方固有の自然条件に求められるべきだ。 『はじめに』の中でもふれたが、まず「そこに石があったから」だろう。磨崖彫刻に適した岸壁、つまり軟質の凝灰岩の露頭を阿蘇火山がふんだんに造成しておいてくれたからである。 石への愛、石への信頼、石への信仰、石への知識……。それは石の加工技術とともに、九州の人と風土の中に継承され生きつづけた。 乱積み300段の果てに、こつ然と出現する熊野の石仏。8メートルを越える仏身が岩壁から突き出した普光寺の磨崖仏(大分県豊後大野市)……。磨崖仏の多くは人踏まれな山奥や近寄りがたい懸崖に位置している。まるで、岩の精の化身か人力を越えた天人の手になるもののように見える。 信仰の実証として、あるいは布教の手段として、あえて、こんな不可能的条件に挑戦したのだろう、その超人間性と強烈な精神性は他に比類がない。