長崎街道の老舗銘菓を地図の上に落としてみる。「ウーン」なるほど、シュガーロードだ。かつて「シュガーロードフェスタ」も大々的に行われた。
貿易品の一つに砂糖があった。長崎に入港するオランダ船や中国船がバラスト代わりに積み込んだとされている。それはさておき、ポルトガル人やオランダ人がもたらしたのは「南蛮菓子」。
唯一の交流地、出島には十数ケ所の蔵のうち3棟が砂糖蔵であったという。
まずは長崎。南蛮菓子を起源にした「長崎カステラ」(スペインのカステーリヤ地方のお菓子だった)、老舗「 砂屋」の屋号の「砂」は砂糖、「 」は当時砂糖の輸入を中国の福州からしていたからだと‥‥。
佐賀県をみてみよう。
街道筋の塩田町には「逸口香」や「金花糖」が情緒ある街並みの中で造られている。「小城羊羹」の里小城町を歩くと、小京都の風情の中に「小城羊羹」の看板が街筋に様々なデザインで並ぶ、組合加入業者も20軒ほどある。「丸く芳ばしい露」の丸芳露(丸ボーロ)の製法もオランダ人から伝授された。130軒ほどのメーカーが競っている。唐津には老舗大原の天保年間創業の「松露饅頭」、大和町には「白玉饅頭」、武雄には庶民好みの「十円饅頭」が知られる。
※興味あるデータがある。2005年の総務省調査によると長崎市の家庭のカステラへの年間出資額は6,956円、なんと全国平均の815円の8.5倍。
佐賀市の家庭の羊羹への出資額は1,549円で全国平均763円の倍以上。
また佐賀県から明治以降に森永製菓の森永太一郎、新高製菓一六軒の森平太郎、江崎グリコの江崎利一、大手菓子メーカーの創業者が出ている。熊本の「お菓子の香梅」創業者・副島梅太郎氏も佐賀のご出身だ。
筑豊地方では中心部の飯塚市の「千鳥饅頭」。寛永年間(1630)に「松月堂」の屋号で佐賀の久保田町に創業し、飯塚に移った。最初はカステラ饅頭といっていた。「ひよ子」も発祥の地だ。「成金饅頭」も。
筑豊地方の銘菓の発達は、少し事情が異なる(炭坑景気に負うところが多いが)とはいえ街道筋の砂糖の歴史が流れていることは否めない。
そして、街道の終点、小倉は湖月の「栗饅頭」が知られる。
街道からは外れるが博多の松屋の「鶏卵素麺」は江戸時代初期からの銘菓、なんでも「明」の人から製法を伝授された。今もポルトガルにはその素形の菓子が残っているということだ。
では、長崎街道が江戸へ続く中国道、山陽道ではどうだろうか、あまりその歴史的な影響は残っていない。九州では、砂糖に加えて他の食材、米、麦などの食材が豊かであること、何よりも九州人の創意工夫の精神が、今日語り継がれている多くの銘菓を生み出してきたことが大きな要因である。
フード(food食べもの)は「風土」である。そこには自然風土のみならず精神風土の意も込められている。
ちなみに「祭り」は街道筋といえども各地趣きが異なる。藩が違うので(規制もあって)伝播しない。砂糖は貴重品とはいえ藩には縛られない「民のもの」である。軽々と藩境をこえて伝わっていくことが判る。目に見えない民の力を感じる。