「天皇家のふるさと日向をゆく」梅原猛先生の名作である。その中で、高千穂論争私はこう考える…と述べている。結論は「もう一度日本の古い歴史として語り継がれた物語を見直すべきであろう」「伝承を不当に高く評価すべきではないが、不当に低く評価すべきでもない」と
さらにその著の中で、哲学者は二つのタイプがある。旅をしない哲学者、西田幾太郎。
旅から学ぶのは和辻哲郎である。和辻は旅から多くを学んでいった。出世作「古寺巡礼」も、彼の主著の「風土」も長旅から生まれた。と-- (旅の効用を説いている。)
そして最後に、こうしめくくっている。
『今回の私の旅は、目的をもった旅であった。私の旅は本居宣長の言うことろにしたがって、なるべく『古事記』や『日本書紀』に書かれていることを素朴に信じ、その物語が一貫性をなすかどうかを検証する旅であった。そしてそれを裏付けするものは考古学的な事実であり、あるいはその土地に伝わる伝承であった。この旅で私はいろいろなものを見た。あまりに記紀神話の舞台が出来すぎていて、後から作られたものではないかと疑わせる遺跡もあった。また記紀には語られていない、神話の中の人物の隠された情念をひそかに語る遺跡もあった。また記紀の記述とは異なるが、併せて考えることによって、かえって記紀の記述がより生き生きと理解されるような遺跡もあった。かくて私の頭におのずからひとつのストーリーが生まれてきた。ニニギノミコトからヒコホホデミノミコトすなわち山幸彦、ウガヤフキアエズノミコトを経て、サノノミコトすなわちカムヤマトイワレヒコすなわち神武天皇にいたる、日向四代のストーリーである。子は親の仕事を受け継ぎ、その仕事を拡大し、孫はまたその仕事を受け継いで別の世界に生きる道を求め、曾孫は三代の歴史を背負って、乾坤一擲、東征の旅に出て成功とするという、天孫族のサクセス・ストーリーがかたちづくられてきたのである。これがはたして事実であるか、それともひとつの物語であるかはもちろん判然としない。しかし、この記紀に語られる日向王朝の物語は、見事に物語としての一貫性をもっていた。そして地名や伝承など後からつけ加えられたと思われるものを差し引いても、なお強靭な一貫した筋をもつ物語であった。その物語は見事であり、そしてドラマを必然的に前へ前へと進めていった。それは事実が一貫性をもっているのか、それとも伝承が一貫性をもっているのか判らない。事実と伝承については、はるか遠い昔のことであるから判別は容易につけ難い。しかし、考古学的遺物や祭りや伝承や地名を併せ考え、粘り強く考察してゆくと、そこにひとつのある客観的事実が見えてくる気がする。もちろんまだ霧のなかに隠れてその真実の姿が見えない話も多い。しかし、この旅で私は、これまでほとんど見えなかった、記紀に語られるいにしえの歴史の姿が、少しずつ見えはじめてきた気がするのである。レヴィ=ストロースは、この神話の舞台の風景があまりに美しいので、それが事実ではないかと思ってしまったというが、案外、このレヴィ=ストロースの直感は正しいのかもしれない。』