鞠智城は山鹿市菊鹿町米原地区から一部菊地市にまでかかる広大な規模を持つ城です。昭和42年から発掘調査がおこなわれ、私も初期の調査と、第八次・九次調査を直接担当いたしました。
鞠智城は大和朝廷が築いた古代山城です。築城の背景には当時の緊迫したアジア情勢がありました。唐と新羅が百済を滅ぼしたのに対し、大和朝廷は百済復活のために援軍を送りますが、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北。危機感を覚えた中央が国防措置として築いた山城でした。当時鞠智城を含む11の城が西日本を中心に造られたことが国書「六国史」に記されています。(現在11のうち6つの城しか発見されておらず、鞠智城も昭和の初めまで長い間その場所を特定できませんでした)
当時、国の尽きるところ(果て)と言われるほど中央にとって遠い存在だった筑紫の国(九州)に、大和朝廷直轄の城が築かれたことは驚くべきことです。また、国書にも度々登場しており、当時は非常に重要な目的を持っていた要塞だったようです。その機能や目的とはどのようなものだったのでしょうか。
鞠智城はまずその築城年代が明らかではありません。また、国防のためなら何故国の出先機関の大宰府から70㎞も離れた内陸部に築かれたのかその目的もはっきりしていません。
築城の時期は、日本書記に「朝廷が白村江の2年後に同じ山城である福岡県の大野城、佐賀県の基肄城を築いた」と記録があるので鞠智城も同時期であろうというのが通説です。しかし私は鞠智城の築城目的を考えるとその時期はもっと遡るのではないかと思います。というのも、鞠智城には、堀切門、深迫門、池ノ尾門とあわせて3つの門がありますがそれらはいずれも南にしかありません。唐、新羅の脅威に備えるというより熊本以南の隼人族、熊襲などに対する前線基地の意味合いを持っていたのではないかと推測できるのです。つまり、大和朝廷の全国統一のため、南九州に対する基地がすでにあり、白村江以後の国防措置を契機に山城としてリメイクされたのが鞠智城ではなかったのかと私は考えます。
「元熊本県立装飾古墳館長
故桑原憲彰」