2024年03月21日

肉食の歴史は九州にあり! 歴史上のあの人もお肉が好きだった!

熊本城近くにある加藤清正公像。長烏帽子と甲冑の陣中の装束だ。

 日本人は元々肉を食べていた。少なくとも仏教が伝来するまでは。殺生を禁ずる仏教が普及すると肉食はタブーに。675年に最初の肉食禁止令が出されてから1871年(明治4年)に解禁になるまで、1200年間も日本人は肉食をしなかった? いやいや体に精を付ける「薬食」として言って食べたりはしていた。そして歴史上のあの有名人も、実はお肉の味が大好きだった。そしてその舞台は九州だった。九州で歴史旅をするならそんな視点から眺めるのもお勧めだ。

豊臣秀吉、肥前名護屋城で お肉の味を知ってしまった?

豊臣秀吉画像【佐賀県重要文化財】(佐賀県立名護屋城博物館所蔵)

 天下人太閤秀吉が大陸進出の野望を賭けて朝鮮出兵したのは1592年。佐賀肥前に名護屋城を築城させ、当時の肥前町は人口が20万人にもなったとされている。そこには長崎からも商人がやってきて、ポルトガルの服が大流行。長崎の仕立人が納品すると同時に卵や牛肉料理が持ち込まれた。すると、それまで西洋人の牛肉食を忌避していた豊臣秀吉が態度を豹変させた。「うまいじゃないか」と言ったかどうかは分からないが、ルイス・フロイスは自書「日本史」の中で「名護屋城では私たちヨーロッパ人の食物も大変好評で、太閤様までが牛肉をとても好んでいます」と記している。
 因みに、「馬肉生産量日本一の熊本の老舗「千興ファームグループ」の歴史と馬刺しのアレコレ」でも紹介している通り、この朝鮮出兵で加藤清正は戦で倒れた軍馬を食して馬肉の虜になった。それが熊本の馬肉文化を築いたのは周知のとおり。

名護屋城の史料を展示する佐賀県立名護屋城博物館
道の駅阿蘇の「馬刺し3種セット」(写真提供:株式会社チームふらっと)

あのスペインの代表的料理で 大友宗麟もお肉食べたかも?

JR大分駅前にある大友宗麟の銅像。マントを羽織り、ロザリオを胸に下げている。

 16世紀半ば、豊後国臼杵の領主大友宗麟はキリシタン大名だった。洗礼名はドン・フランシスコ。彼は西洋の医学や音楽、文化などを積極的に導入した。当時の臼杵は日本でも屈指の文明開国であり、領内にはスペインやポルトガルからの宣教師ら暮らし、南蛮文化が浸透していた。宗麟は南蛮の食文化も取り入れたが、戦国時代でもあり臼杵も食料が乏しかった。そこで宣教師ガスパル・ヴィレラは復活祭で集まった信者ら400人に自国の牛肉の炊き込み飯「アロス・コム・ワカ」をふるまった。黄色いその米料理はガスパル・ヴィレラの故国スペインの郷土料理。パエリャだとも伝えられ、サフランの代わりにクチナシを用いたという。それが400年を経てもなお臼杵の郷土料理として親しまれている「黄飯(おうはん)」の由来でもある。もちろん、宗麟も肉入り炊き込みご飯、パエリャを大いに味わったことだろう。

臼杵市にある大友宗麟の居城の臼杵城跡
臼杵の郷土料理「黄飯」はパエリャが由来とされている

実は細川忠興もパエリャ好き? 鶏肉入りパエリャを作らせた?

細川忠興像(『肖像集』「三斎老公」)(国立国会図書館デジタルデータ)

 肉入り炊き込みご飯「アロム・コム・ワカ」がすっかり気に入ったのは、大友宗麟だけでなく豊前国小倉藩初代藩主であり、肥後細川家初代の細川忠興も同様だったらしい。自らの屋敷で鶏肉入りのパエリャを作らせたりしていた。さらには葡萄酒も作らせていたという。屋敷には南蛮技術に通じ、葡萄酒やアヘン製造にも関わっていた上田太郎右衛門という人物が出入りしていたとされる。
 1627年、豊前中津城に隠居していた忠興は子の忠利に次のような書状を送っている。「黄飯の料理人2人が来たが、思っていたような味じゃなかった。上田忠左衛門の弟(太郎右衛門と推測される)をすぐに来させてほしい。彼に鶏飯も焚かせたいし、南蛮料理も作らせてみたい」。よほど南蛮の肉入りご飯、パエリャに近い「アロム・コム・ワカ」が食べたかったのだろう。

小倉城は細川忠興が1602年に築城した。
牛肉入りパエリャのイメージ

平戸城主松浦公の肉好きに 宣教師も頭を抱えた?

松浦鎮信像(松浦史料博物館蔵)

 松浦鎮信(しげのぶ)は戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥前国平戸の初代藩主であった。彼は海外交易に積極的だったため、1609年に平戸オランダ商館が、そして鎮信が没する前年の1613年に平戸イギリス商館が建った。食に関しても好奇心旺盛で、牛肉や豚肉はもちろん、ワインもパンもためらうことなく何でも食べた。宣教師のゴンサロ・フェルナンデスは「平戸の人は坊主以外は牛や豚を食べる」と報告している。
 平戸イギリス商館長のリチャード・コックスは松浦鎮信に「葱と蕪青とを入れて煮たイギリス牛肉の一片」や「胡椒をかけたイギリスの牛肉二片」を送ったと書いている。さらに彼の部下の職員は松浦鎮信がたびたび豚肉や牛肉を所望し、家族らと食べに来ると報告している。一方、宣教師カルロ・スピノラの書簡には「日本人が牛肉を腹一杯食べたり、西洋料理を食べるために宣教師宅に来るのは困る」と苦言が残されているほど。

松浦史料博物館内(写真提供:株式会社チームふらっと)
復元された平戸オランダ商館(写真提供:株式会社チームふらっと)

薩摩の豚肉の美味に 徳川斉昭・慶喜親子がぞっこん!

征夷大将軍在任時の徳川慶喜(山陽新報社「開国文化八十年史」より)

 「かごしま黒豚」のルーツは約400年前、島津18代藩主・家久により琉球から導入。養豚が薩摩で盛んになり、豚肉を食する文化が根づいたとされる。江戸時代、薩摩の藩士は江戸屋敷でも豚肉が食べたいと、江戸屋敷内で豚を飼育するほどだった。江戸屋敷で生まれ育った島津斉彬も豚肉料理になじんでいた。1845年、彼は同じ一橋派の水戸藩主徳川斉昭に薩摩の黒豚を贈呈した。すると徳川斉昭は「いかにも珍味、滋味あり、コクあり、何よりも精がつく」と薩摩の黒豚を大絶賛したという。以来、薩摩の黒豚を食べたがったという。
 そしてそれは息子の徳川慶喜も同じだった。江戸幕府最後の将軍となる彼だが、薩摩藩産の豚肉が大好物で何度も豚肉の献上を要請した。薩摩藩家老の小松帯刀は自分が食べる分まで贈る羽目に。そのため慶喜は公然と「豚一様(とんいちさま)」「豚一殿(ぶたいちどの)」(豚肉がお好きな一橋様)と呼ばれていた。

幕末明治には迎賓館になった仙厳園御殿の「謁見の間」。(写真提供:株式会社チームふらっと)
かごしま黒豚は今も多くの人を魅了する(写真はイメージ)