海外への扉を閉ざし、長く封建的な武家社会を続けてきた徳川幕府も、三百年たつとあちこちで「変革」の地響きを抑えられなくなる。「変わらなければならない」という決意は、江戸から遠い薩摩や長崎で激しく燃えさかった。
長崎は、幕府が唯一西洋への窓を開いた「出島」を抱える地。幕府直轄とはいいながら、オランダ商人たちとの交流で情報や知識は駆け巡る。長崎で生まれた「日本初」の文物は、アスファルト道や鉄橋、ボウリング、バドミントン、ハム、コーヒー、缶詰、写真機などあらゆる方面に及んでいる。
そして、この長崎の警護を命ぜられたのが佐賀藩だった。警備を通じて入手される、驚くような海外事情。それは、佐賀藩10代藩主の座につき藩政改革に乗り出した鍋島直正にとっても、強烈な追い風となった。日本初の反射炉を造り、大砲や蒸気船を完成させ、佐賀藩に東洋一の軍事力をもたらすのである。
保守的な重臣たちの反対や逡巡も押し切って、新しい時代を切り開く直正の姿勢は、同時代に薩摩藩で11代藩主の座に付いた島津斉彬にも共通するだろう。直正より20年後に藩主となる斉彬は、おそらく佐賀藩の開明的な改革を耳にしていたに違いない。曽祖父・重豪の血を継いで西洋文明収得に貪欲だった斉彬は、就任するや、洋式造船建造、反射炉・溶鉱炉建設、ガラスやガス灯の製造などの「集成館事業」を次々に実現させていく。また、洋式帆船の建造にも取り組み、その帆布に必要な木綿紡績事業も興した。
斉彬は惜しくも在位7年で急逝したが、その遺志は引き継がれ、明治維新への大きな原動力となった。直正は江戸幕府の終焉を見届け、明治4年まで生きている。九州の生んだ2人の開明君主が、日本の歴史を動かす大きな舵取りを果たしたといえるだろう。
この旅では、幕末の日本近代化の先陣を切った長崎・佐賀・鹿児島を巡りながら、その先見性に改めて感動したい。
長崎空港~(60分・バス)長崎
長崎~(75分・JR)佐賀~(35分・バス)川副町~(35分・バス)佐賀~(20分・JR)鳥栖~(10分・JR+70分・九州新幹線)鹿児島中央駅
鹿児島~(110分・バス)鹿児島空港