源平最後の合戦はここで行われた。関門海峡は九州と本州に挟まれていた潮の流れが激しいところ。「早鞆の瀬戸」とも呼ばれ、昔から潮流の変化の激しい海の難所として知られている。当時、千数百隻、一万人近くとも言われる源平の兵が僅か600mの海域を紅白の旗をひるがえして埋め尽くした。
博多湾と玄海灘をへだてる半島で志賀島と九州本土とを繋ぐ。全長約8km、最大幅約2.5kmの巨大な砂州で、その中心をJR香椎線と県道59号が並行して走っている。「海の中道海浜公園」は動物の森や子供の広場、ホテル、水族館などがあり人気のリゾート地。
大和朝廷が送った若い武将と地元の豪族の娘佐用姫の悲恋の伝説が残る鏡山。船出する恋人を慕って衣の領巾(ひれ)を振り続けたので領巾振山とも呼ばれる。山頂からは長さ約4km、総面積約240haにわたり100万本の松林が林立する名勝虹の松原が見える。
対馬島の中央に位置する湾で、大小幾つもの入り江と島々が複雑に入り組んでいて不思議な景観を見せる。波おだやかな湾は絶好の釣りスポットであるとともに、真珠の養殖でも有名。大船越瀬戸(おおふなこしせと)と万関瀬戸(まんぜきせと)の2つの運河が、浅茅湾と対馬海峡を接続している。
佐世保港の北にわたって島々が点在する海域で、島の密度が高いのが特徴。佐々川河口を境として北側を「北九十九島」、南側を「南九十九島」と呼ぶ。全域が西海国立公園に指定されており、九十九島を眺めることができる遊覧船が出航している。
九州最西南端の長崎半島(野母半島)の先端部に位置し、海岸線沿いには海の浸食でできた奇岩や美しい砂浜などを見ることができる。水仙の里公園には約1,000万球の水仙が植栽されており、開花期には水仙の甘い香りたただよう。
富岡は雲仙天草国立公園の重要な部分で、富岡城からは天草西海岸を北上する海流によって形成された独特の景観が眺められる。天草・島原の乱で天草四郎を含む一揆勢は大矢野から本渡と進撃し、富岡城を囲んだ。
日本外史の著者として知られる頼山陽は、1818年に苓北町富岡を訪れ、天草灘を「雲か山か呉か越か」で始まる名吟「天草洋に泊す」と詠み絶賛した。天草洋とは熊本県天草と長崎県島原半島の間の海のことを指す。昭和7年に詩碑が建てられ、現在は頼山陽公園となっている。
天草地方は、有明海と不知火海に挟まれた海に、大小30あまりの島々が浮かぶ。この多島海の風景は日本三景の宮城県の松島に似ているところから、昭和のはじめより「天草松島」と呼ばれるようになった。昭和31年雲仙天草国立公園に指定され、松島はその中心地。
景行天皇が九州巡幸で御輿を止めたのが地名の由来とされている海岸。干潮時には海岸線に約10キロ、沖合約2キロにわたって砂模様が浮かび上がる。自然がつくる美しい砂紋はとても美しく、干満差の激しい有明海ならではの風景。日本の渚百選にも選ばれている。