今から1500~1600年前、数千のカッパ集団が黄河流域から八代の徳淵の津に上陸した。大将は「九千坊」。
当時、中国では「三国志」の時代、戦乱が続き、大人は殺され、奴隷として連れ去られ子どもしか残っていない。食はない。九千坊は子供達を率いて平和な新天地を求めて海を渡る。八代はその適地であった。
カッパの絵には「皿」がある。中国の子どもは頭の頂きを丸く剃っていたから。甲羅や手足の水かきは、革製の浮き板や水かきを使っていたからそのような絵になった。今も行うカッパ祭の呪文「オレオレデライタ」は中国語、即ち「呉人呉人的来多」中国人が沢山やって来たという意味――、八代に住み着いたカッパは九州各地、特に筑後川へ移り住み、それぞれの地の水と緑の守り神になった。
八代カッパ共和国、元・大統領、ドクター福田瑞男先生の話。博識ある氏の話には説得性があると思うが‥‥。
河童が最初に日本に渡ってきたのは八代であることは、今や全国的に認められている。というのは昭和天皇ご健在の頃、つまり昭和三十三年四月一日宮中で、天皇ご出席の上開かれた放談会で述べた火野葦平氏の話で明らかである。その会の出席者は、火野氏のほか獅子六文、佐藤八郎、吉川英治、徳川夢声、の五氏で、夢声氏の司会で開かれたという。
火野「河童は、中近東ペルシャ方面、今のヨルダン方面から大移動して来たのではないかと言えるわけです。ドイツにもワッセル、ロイテ、ニクゼンというカッパによく似た動物がいたと言えますから、もっと西から来たかも知れません。とも角カッパの大群が九千坊という大将に率いられて、インドのヒマラヤ山の南麓、デカン高原の北、その間にあるタクラマカンという砂漠を東に移動して、蒙古を通り、中国を抜け、朝鮮から海に出た。
そして九州・八代の徳の淵というところから上陸したと言われていまして、今でも徳の淵といわれた中島町に『河童渡来の碑』があります。
その昔、加藤清正が可愛がっていた小姓がある日、川に溺れて死んだ。それはカッパが引いたのではなかったろうが、清正はてっきり河童の仕業に相違ないと大いに怒ってカッパ退治をやった。軍隊を動員して両岸からどんどん川の中に鉄砲を打ち込む、矢を射込む、大砲で砲弾を打ち込む。大きな石を焼いて投げ込む、上流から毒を流すという、もう大変な大騒ぎであった。九千坊はじめカッパは住むことが出来ない。這々の態でそこを逃げて筑後川をはじめ九州の河川に移動した。現在筑後川が頭目九千坊残党カッパの集散地になっている」
徳川「ははぁ九千坊ね、九千坊が急先鋒か」
これを聞かれた天皇はじめ皆大笑いだったという逸話が残っている。