高島炭坑(北渓井坑)

世界文化遺産 造船 石炭産業
高島炭坑 (北渓井坑)

発見後は伊万里と波佐見焼き、塩作りの燃料に使われた高島石炭。
 1695年に平戸の五平太により高島で発見された石炭は、発見者の名を取り「五平太炭」とも言われ、当初伊万里や波佐見焼の窯に使う燃料や塩作りの塩水を沸かす燃料として使用されていたそうです。やがて佐賀鍋島藩の領地であったことから、1868年佐賀藩とグラバー商会が共同経営により開発を進めていきます。

国内初の蒸気機関を使い竪坑で採炭した最先端技術の北渓井坑。
 島の面積わずか1.21平方㎞、一番高い権現山で114mの小さな高島は、それまで露天掘りで石炭を掘っていましたが、グラバー商会が英国から最新鋭の設備を取り寄せ、1869年垂直に掘る「立て坑技法」で深く掘り進み、蒸気機関を使った採炭、排水設備、捲揚機を坑内に設置し、人や石炭を運搬。採炭場所から積み出しの船が着く波止場までレールを敷き、石炭を輸送する仕組みを作り上げ、最盛期には300トンを採炭していました。1876年に海水の浸入により一旦廃坑になりましたが、この立て坑の技法や技術は後に三池炭鉱や筑豊炭田へ大きな影響を与えていきました。

開国後は蒸気船の燃料として大きな役割を果たし、やがて三菱が巨万の富を生み出す。
 長崎港の入口に面していることもあり、異国船の見張り・監視する「遠見番所」として長崎港警備の機能も担いました。
高島炭鉱の経営は佐賀藩・グラバー商会の共同経営からオランダの商社ボードウィン、その後官営になり、後藤象二郎(蓬莱社)に払い下げられ、1881年に岩崎弥太郎率いる三菱へ移っていきます。開国後の日本へは欧米列強の船が長崎港へ燃料を求めて寄港。高島の石炭は良質だったことから人気も高く、三菱により1965年頃には従業員3,000人、年間出炭量が127万トンにまで達し、軍艦島と併せて莫大な富を築くまでに成長していきました。

住所 長崎市高島町99-1
お問い合わせ 文化観光部 文化財課
電話:095-829-1193
FAX:095-829-1219
利用料金 無料
アクセス情報 高島港より徒歩30分
循環バス「本町」下車徒歩1分

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