原城跡

世界文化遺産
原城跡に建てられている十字架のモニュメント
城壁跡
原城跡から天草方面を望む
原城跡に建てられている十字架のモニュメント 城壁跡 原城跡から天草方面を望む

晴信は関が原の戦いで当初西軍に属していたが、形勢不利と見て東軍(徳川方)に寝返り、同じキリシタン大名で西軍に属していた小西行長の宇土城を攻め落とした。その貢献を認められ、徳川家康からも信頼を得ていたが、朱印船貿易でポルトガル領マカオで配下の水夫を殺害される事件に端を発し、長崎奉行との確執や旧領地を取り戻すべく幕府への画策する中、1609年~1612年「岡本大八」事件(贈収賄事件)の贈賄が発覚し流罪処分となる。
その後領地4万石は改易され、没収。晴信はキリシタンのため切腹を拒み家臣に斬首させ絶命。

嫡男・直純は若い頃から親元を離れ、徳川家康の側近として仕え、家康の養女国姫を正室に迎えていることもあり、父との連座を免れ、一旦は父の旧領地を継ぐことができるが、禁教令に従って棄教し、領内のキリスト教排除など幕府の政策に従って藩を収めていたが、1614年長崎奉行の勧めもあり、わずかの家臣を連れ日向延岡藩5万3千石に転封(藩を移る)する。

原城は有明海に張り出す丘陵に1496年に築城。東は肥後、南は天草諸島を見渡すことができる美しい海城だった。1616年幕府の命令で大和から松倉重政・勝家父子が移り住み藩主となるが、幕府の一国一城令と不便なため7年をかけて島原城を築城。その際に日野江城、原城の石垣や城郭は壊され、島原城に転用された。

一揆で荒廃した島原の復興を、高力忠房がみごとに成功させた。
この一揆により、南島原の領民が居なくなったため、三代将軍徳川家光の命で1639年浜松から高力忠房(こうりきただふさ)が藩主として移り住み、1年間の年貢免除などの策で全国の浪人移民奨励を図り、キリシタンとは無縁の人々が暮らすようになり平穏に復興がすすんでいったとされる。
原城址は島原・天草の乱後、討伐軍が原城跡に残っていた石塁などをことごとく破壊、一揆に加担した人々の死骸も一緒に埋めてしまい、跡形も無い状態で放置されており、1938年国の史跡に指定され発掘調査が行われて今のような形に整備が進んだ。

島原半島に残された有馬の旧家臣達はキリシタンだったこともあり松倉藩には仕えることができず、浪人や農民となっていた。海を隔てた上天草ではキリシタン大名だった小西行長(関が原戦いで敗れて斬首、藩は有馬晴信に攻められ落城)の遺臣達は唐津藩の飛び領地となったが仕官ができず同様の状態だった。双方ともにキリスト教の棄教を迫られ、さらには凶作が続き、追い込まれていった。

島原と天草でキリシタンを棄教していない旧家臣、遺臣と農民の首謀者は天草大矢野島沖合いに浮かぶ周囲4kmの湯島に集まり、作戦を練り武器弾薬を調達し、一揆を起こして戦うべく準備を進めていった。このことから湯島は後に談合島と呼ばれることになる。そして1637年10月25日、ついに南有馬村で代官を殺害し武装化して一斉蜂起。翌26日、一揆軍は島原南方の深江で藩兵を破り、そのまま島原城下へと攻め入る。藩兵たちは島原城内へ撤退して籠城。一揆勢は、島原城を包囲したが城内からの反撃を受けて攻略することが出来なかった。(島原の乱) 天草でも数日遅れて天草四郎時貞(益田四郎)率いる一揆が蜂起し、唐津藩の富岡城を攻めるが落城できず、幕府側の援軍が来ることを知り、海を渡り島原勢と合流する。(天草の乱)

一揆勢はイエズス会を通じてポルトガルの援軍や各地のキリスト教徒らの蜂起を期待していた節もあるが、願いはかなわず、原城への籠城となる。
幕府は当初、板倉重昌による討伐を命じるが、板倉重昌は攻撃中に一揆勢に逆襲され命を落とす。
事態を重く見た幕府は老中松平信綱を総大将に据え、西日本諸般の大名で構成した討伐軍12万余の兵で原城を包囲。長崎に居たオランダ船にポルトガル国旗を掲げさせて海から砲撃を加えるなど、心理的な揺さぶりをかけるなどもするが、長くこう着状態が続き、兵糧攻め作戦へと切り替え、最後は1638年2月27日から28日にかけての総攻撃で乱は4ヶ月を経て鎮圧された。

残っている記録は幕府討伐軍の戦記や書状が主で、鎮圧された側の一揆勢に関する記録がほとんど無いため、事実は闇の中の部分もある。
日向延岡に転封となった有馬直純も幕府討伐軍に加わって一揆勢を攻めたこと、宮本武蔵が小倉小笠原藩の兵となって戦って負傷したことなど、記録が残っている。

住所 南島原市南有馬町
利用料金 無料
駐車場 あり
アクセス情報 原城址駐車場から旧城壁石垣沿いに遊歩道が整備され、徒歩5分ほどで天草四郎のお墓がある公園広場に出る後ろは有明海、前には農地なった丘陵が広がる
その他 トイレ駐車場にあり