脊振山には、かつて「脊振の千坊」と呼ばれる多くの寺があり、山岳仏教文化の栄えた地であった。その中心とされたのが「霊仙寺」である。臨済宗の開祖である栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種を石上坊(霊仙寺の坊の一つ)の境内に蒔いたといわれ、日本茶の発祥の地とされている。
佐賀市巨勢町にあった龍津寺は売茶翁が出家した寺として知られる。開祖化霖に仕え修行に励んだ。一時厳しい修行の旅に出るも再び戻り57歳まで職務にあたった。京都に出て茶を売りながら禅を説き「売茶翁」といわれるまで、売茶翁が長い間親しみ過ごした寺だ。
煎茶道を普及したと仰がれる「高遊外売茶翁」は、延宝3年(1675)佐賀県蓮池の地に生をうけた。本名は柴山元昭。鍋島蓮池藩の藩主の侍医だった父と、8歳の時に死別し、黄檗宗龍津寺に入門するまで過ごした。生家である柴山家住宅は、移築・改築されながらも佐賀市蓮池町に昔のままで現存する。現在、古民家再生プロジェクトなど保存活動が進行中だ。
初代鍋島蓮池藩主・鍋島直澄公は吉田地区に窯業を普及させた功労者だ。吉浦神社には、直澄公の遺骨が分納されており、毎年4月には「お山さん祭り」(お山さんとは直澄公のこと)が開催されている。ツツジの名所としても知られる。
市街地から西へ7kmほどの不動山・皿屋谷にある、樹齢340年ともいわれる茶の樹。樹高4m、樹冠8m。国の天然記念物に指定されている。江戸時代、嬉野茶の茶祖といわれる吉村新兵衛が栽培した一本という。
古くから長崎は、中国など外国との交易が盛んでキリシタンも多かった。禁教令発令後、キリシタンであるという疑いから逃れるために建てられた日本で最初の黄檗禅宗の寺である(1620年開山)。また、煎茶道の開祖といわれる明の高僧・隠元禅師ゆかりの寺でもある。
隠元禅師はその名の通りインゲン豆やスイカ、ナス、モヤシや印鑑、食卓などさまざまなものを中国から伝えたという。明より中国式精進料理である普茶料理を伝え、多くの人にお茶を伝えたと言われる。今も、興福寺門前では普茶料理がいただける。