現在、佐賀市では翁の子孫にあたる、柴山高揚氏が高遊外売茶流12世家元として煎茶道を伝承されている。また、地元である蓮池地区には売茶翁ゆかりの旧柴山家住宅が存在し、老朽化で朽ち果てようとしている。
顕彰会では佐賀の文化的な地域遺産である翁ゆかりの住宅を復元し、佐賀の核として活用し、佐賀の誇りとしたいと平成16年に顕彰立ち上げ活動を開始している。
以下、顕彰会の資料に従って彼の生涯の一部を。
高遊外売茶翁こと柴山元昭は1675年に肥前の国神埼郡蓮池(現在佐賀市)に生まれました。蓮池支藩の藩医だった父(柴山杢之進常名)とは幼いころに死別、11歳で黄 龍津寺(佐賀市蓮池)に出家し、本山である宇治萬福寺の第四代独湛禅師に非凡な才能を認められました。禅僧として京都や江戸、仙台など、全国各地の高僧から禅、律学を学び、さらに長崎では清の人から「煎茶」を習得しました。 中国語や漢文に堪能で、すぐれた漢詩や和歌を残し、代表的な漢詩人・書家でもあり、「江戸漢詩選」著者として「扁山種茶譜略」などを残しています。
高遊外は晩年になって佐賀を出て、京都に上り、「通仙亭」という茶店を構え、上流階級の文化だった喫茶の風習を庶民に広げ、身分によって人を差別するのではなく、禅を説きながら茶を施す、売茶生活を始めました。そして、煎茶道を確立していきました。
茶を売る席には、「茶銭は黄金百文より半分銭まではくれ次第、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず」と書き付け、春は桜の下で、夏は清流の渓辺で、秋は紅葉の中に茶道具を担いで出かけ、清明な自然の中でお茶を煎じて売りました。
瓢々と売茶生活をする高遊外のもとには、多くの文人墨客が集い、「売茶翁に一服、接待されなければ、一流の文人とはいえぬ」とまで言われ、文人の中には伊藤若冲など江戸中期の文人が名を連ねています。
尚、茶の湯(抹茶道が茶室の中で・わび・さびを追求したのに対し、高遊外は広い自然の中で「煎茶道」を追求し、人の生き方や、人の心の啓蒙をはかりました。