寛政元年(1789)死亡の三浦梅園は幕末、維新の激動期に直接かかわりはないが、帆足万里、広瀬淡窓と併せて豊後の碩学者。蘭学、医学、天文学など多岐。住居は今も残されて資料館となっている。
中津市と福沢諭吉は切り離せないほど、中津を代表する顔、もちろん、1万円札の顔であり、日本中がなじみの人、「天は人の上に人をつくらず‥‥」と民主主義を確立した。生まれは大阪堂島だが、幼くして父と死別、その後、中津に母と幼年時代を過ごす。諭吉を育てた家が残り、記念館もある。慶応義塾の経営に当る。明治34年死(68歳)。
淡窓が開いた私塾、全国から門弟が3,000人も集まった。高野長英、大村益次郎の姿もあった。幕末、風雲慌しいなか、学を説き明治の人材を育んだ。(安政3年1856没)
旧秋月藩士族の反乱が秋月城下で起る。明治9年10月28日。明治新政府に対しての諸政策(廃刀令、韓国政策)を不満とし国権拡張、欧化反対を唱えた一連の佐賀の役、神風連の乱などと同根のもの。
幕末の志士たちが母のように慕った勤王の歌人。彼女が住む平尾山荘は高杉晋作、月照、平野国臣ら勤王の士の隠れ家になった。姫島に流された彼女を高杉晋作が救い出した。当時の平尾山荘が残る。
鎖国日本(寛永16年)の貿易の拠点。扇形をした人工島で、当時、海外に向けられた日本の唯一の窓口だった。ポルトガル人が追放され、平戸にいたオランダ人を住まわせた。オランダの一流の学者(ケンペル、ツルベルグ、シーボルト)も出島に滞在している。日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」。いま当時が再現されている。