文化3年(1806)福岡藩士の娘、26歳の時に歌人の大隈言道の門下に入り45歳で夫と共に平尾山荘に隠棲。
夫の死後、得度剃髪し招月望東禅尼の法名を名のる。
文久元年(1861)京に上り、京滞在中は、寺田屋の変などを体験、見聞したことは後の彼女に影響を与えた。
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望東尼が京から帰福後は、平尾山荘はかつての花鳥風月中心の文化サロンから、時局を語り歌う会へと変質していく。
「武士の大和心を寄り合わせ
ただ一すじの大網にせよ」
と勤皇の気持を歌に託している。
彼女が姫島から歌人へあてた手紙が数多く残されている。
血で認めた般若心経などは心を揺さぶられる。
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「京に上って一流人と接した後、福岡に帰きた彼女の許に、京都の情勢を聞こうと、有名な平野国臣や中村円太といった筑前の志士たちが望東尼を尋ねてくる。彼らの上洛に際し、京の志士たちへ紹介しやったりする。そうこうして、平尾山荘が勤皇派のアジトになっていったわけです。望東尼は尼ですから、そんな大それたことにかかわっているとも思われていない。そういうことで、山荘はいい隠れ蓑になってしまうのです。高杉晋作も元治元年(1864年)に長州から逃がれて平尾山荘に一週間ほど潜居しています。
慶応元年(1865年)に福岡藩は、加藤司書以下の勤皇派を一網打尽に弾圧して処刑します。望東尼は女性だからということで、芥屋の近くの姫島に流されます。獄中、『ひめしまにき』を書いています。翌、慶応二年九月十六日に高杉晋作は、かつての恩義に報いるため、望東尼を救い出し、下関まで連れていきます。しかし残念なことに、それから間もなく高杉晋作は翌年望東尼にみとられて亡くなっています。このとき、晋作が辞世に『おもしろきこともなき世をおもしろく‥‥』と上の句をよみ、望東尼が『すみなすものは心なりけり』と下の句を添え、晋作がおもしろいのう‥‥といって息をひきとったのは、よく知られている話です。」
「博多に強くなろう」
(福岡シティ銀行編)から