五ヶ瀬町から二上山を目指しフォレストピア六峰街道を車を走らせる。20分ほどで杉が越の峠。車を置き「三ヶ所神社奥宮」への径を登る。整備された径だが急坂が続く。
深い切れ目の谷、斜めにかかった鉄の橋、手すりにつかまりながら喘ぎ喘ぎ登りつめる。
垂直の岩窟を廂にして奥宮さまが鎮まる。
二上山九合目、海抜
日向風土記(逸文)に「ニニギノミコト二上山の峯に天降りましき、時に天暗冥く…」とある。天孫は手にしていた千穂の稲を籾にして投げると空が晴れた--智舗、知保郷の由来でもある。
その二上山、頂き近く、いま7時前、雲重なる空は、神降り賜うとき、かくや、の雰囲気に心も引き締まる。
陽が昇り始めた、私の左横、東の方からの薄い光りを浴びて、目の前の山の峯々の陰影が次第に瞭然となる。
見渡す広がりの中、山また山が幾重にも続く。山襞にまとう朝霞の中に山の頂きが次々と浮かぶ。
今まで多くの山々の頂きに立った。ここは違う。裾野が大きく広がる根子、久住とは大きく違う、祖母、市房、霧島とも趣が異なる。
同じ視線の果てに峯々が重畳と続く。山の一つ一つの精気が集まりこもって霊気となって迫る。 山に霊気がある、初めて感じる。
ここに、神降り賜うたのか-- 再び想う。
心が素直になっていく。神の存在を身近に感じる。
「曙光まつ二上山の頂きは 天界暗冥く神降るらむ」生まれて初めて、歌を詠んだ。
神宿り、人憩う山、-- フォレストピア--森林理想卿と名付けられたこの地の思想の根底にある風土が、旅人の私にも五感を通して感じられる。下界と結界を異にした一つの精神世界がここにあった。
ところで、私が立つのは男岳、もう一つ同じ山容の女岳が隣りに続く、だから二上山。
「ニニギノミコトは天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきたが、ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかった。天つ神が困っていると、忠告する土蜘蛛があった。名をオオクワ、コクワというこの土着の民が、稲の霊力によってこの闇は晴れるというので、千穂の稲を籾として投げたところ、天は晴れ、日月も輝いた」という記述である。『風土記』は和銅六年(七一三)の詔に応じてできたものである。とすれば奈良時代において、ニニギノミコトが降臨されたのは臼杵郡内の智鋪の里、すなわち今の宮崎県西臼杵郡高千穂町であると考えられていたことはまず間違いない。 (梅原猛著 天皇家の"ふるさと“ 日向をゆく・新潮社刊) |