尊王か攘夷か、国中が大きく揺れ動く幕末の頃、肥後藩に勤皇思想を護り「忠考」の精神のもとに尊王攘夷に奔走したのが宮部鼎蔵。
鼎蔵は御船町上野茶屋元に生まれた。文政3年(1820)産湯を使った井戸も大切に保存され、「宮部鼎蔵邸跡」の碑も建っている。熊本市内坪井に移り林桜園の原道館に入門し、藩の兵学師範に取りたてられた。
その頃、父母の住む上野への22㎞の道を幾度も行き来し親につくした。十歳年下の長州の吉田松陰とも親交が厚く、二人で東北諸藩を遊歴、刀を交換もしたりしている。京都「池田屋」で新選組に襲われ激戦の末に自刃。(元治元年・1864)(45歳)惜しまれる鼎蔵の死あった。
日向往還沿いの町や村には共通して、優れた文化・風土が秘められている。一つは石橋文化であり、祭もまたその一つ。それぞれの形態を持ちながらも、「造り物」がキーワードとなっている。山都町(蘇陽)の「火伏地蔵祭」が「造り物」を造って祭りのだし物としたのを倣って往還沿いの村や町では「造り物」が主流となっていった。是非、各地の祭りを鑑賞しながら日向往還を歩かれることをおすすめする。