八代から球磨川をさかのぼる。
道路はこの渓流の左岸の山を削ってつくられているが、いつのまにか右岸に変わったりする。
球磨川という、九州第一のこの大河をさかのぼるのはむろん、実地にこの道をゆくのもいいが、地図の中の球磨川をみるだけでもこの川の人格のようなものに十分に接することができる。
ここの大名は、相良氏である。
江戸幕府の諸大名のなかで、相良氏と島津氏が最古の家系であった。いずれも頼朝の鎌倉幕府から任命されて下向した。それまで相良氏の祖は遠州(静岡県)相良庄に住んでいたという。その遠州相良氏のうちの相良三郎長頼という者が「建久九年肥後国球磨郡人吉ノ庄」をもらって下向したというから、明治維新までじつに六百七十年という長期間の家系をつづけている。
江戸期の大名の家系では最もふるく、鎌倉の源頼朝からこの盆地をもらい、室町期を生き、戦国期を経、江戸期も安泰で、明治維新にいたるまで六百七十年つづいたというこの家系のめでたさは、本来人吉盆地のめでたさといわねばならない。相良氏にあっては、歴史の目をそばだたせる英雄豪傑というものは出なかった。英雄がこの家系を持続させたのではなく、人吉という地理的事情がこの家系を持続させた。
「青井大明神」という額を高くかかげたこの楼門は、京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)などよりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さをもっているのである。
肥後側から大口盆地にむかってなだらかな傾斜がある。この傾斜の風景は、声をあげたくなるほどに美しかった。
樹林は相かさなって、その重なりごとに緑の濃淡がある。こういう段丘と両袖の樹林という景観に接すると、涙がにじむような懐かしさをおぼえる。
沈壽官という、この朝鮮名をもつ薩摩焼の家は慶長のころから十四代つづいていて、薩摩の旧士族である。
沈壽官家の屋敷の門は、薩摩では中ぐらいの家格の士族門である。門を入ると、すぐ矢防ぎがある。
門を入ると、いつ訪ねても庭に鶏が走っている。白色レグホーンというような鶏ではなく、天ノ岩戸の前でもって天鈿女命がおかしげに踊りまわっている、そのそばにいる日本古来の鶏である。私どもの子供のころにはこういう鶏がどの田舎にもいたが、いまの私の見聞範囲では沈壽官家にゆかないと見られない。
かれの村の苗代川が薩摩の士族村のふんいきをわりあいよく残していることと、かれの屋敷が、いまは次第にほろびつつあるその種の屋敷の結構をわりあいよく残しているからである。