霧島神宮‥‥‥現在の社殿は江戸中期、島津家二十一代目の島津吉貴によって建てられたというが、いかにも壮大な威風堂々たる建物である。
この雄大な風景を背にした壮大な神社によって、明治維新をおこした薩摩隼人の剛健な気風が養われたのではなかろうか。薩摩が勤皇軍の中心として活躍したのは、その領内に霧島神宮のような天皇家の祖先を祀る神社があったからではないか。霧島神宮には、薩摩隼人ひいては明治以後の日本の軍国主義の力強さと、その危うさを感じさせるものがある。
そう思ったのは、神宮の威容を拝しての単なる印象ではない。江戸中期に本居宣長、平田篤胤らによっていわゆる国学が起こっているが、第二章でふれたように、そのころ島津藩でも白尾国柱という人が出ている。彼は本居宣長から国学を学び、宣長の友人でもあった。この白尾国柱を先頭とする薩摩の国学が、この霧島に注目したのである。ここは天孫降臨の地であり、日向三代の神々と神武天皇を祀る神社がある-- こういうところから勃然として島津藩における尊王思想が生まれ、それが討幕維新の大事業へと結びついたのである‥‥。