この奥つきに鎮まる
幼帝、哀惜の念深し
波の底とはここだったのか
二位殿、やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ
(『平家物語』)
源平の争乱は壇ノ浦で決着がついた。安徳天皇は二位尼(天皇の祖母、平清盛の妻)に抱かれて海に消えた。このときわずか八歳。あまりにもはかない運命だった。
しかし、この入水には替玉説が根強くささやかれている。
言い伝えによれば、安徳天皇はこの地に逃れ、十七歳で崩御されたという。天皇を祭る山宮神社から御陵への山道が続いている。かなりの急坂だ。一歩一歩踏みしめて歩く。
行く手を遮っていた濃い緑の茂りが途切れ、視界がひらける。山すその広場の一画に「伝安徳天皇御陵」の標木が立っていた。御陵は径二メートルほどの小さな円墳。前面は石垣で囲まれている。柵などないから近寄ってそっと手でさわってみた。
天皇陵とよばれるものをこのように間近に見たのは初めての体験だ。
御陵を下って集落の総代を務めている大山巍さんを訪ねた。平家の子孫と聞いたので、そのことを訊ねてみた。「はい。集落全員がそうです」気負ったところはない。淡々たる口調である。思い切って安徳天皇のことも訊ねた。
「本当にここでお過ごしになられたのでしょうか」「はい。十七歳でお亡くなりになりました」「では、古文書とか遺品とか、そのことを裏づけるものはありませんか」「それはありませんな」
あっさり否定されてこちらはちょっと拍子抜けしたが、大山総代の表情は「それがどうかしましたかな」といわんばかりでまったく気にしている様子はなかった。
この旅のルートから外れるが五家荘(八代市泉町)には、平家落人の記録や伝承が随所に残されていて興味深い。
名前からして何やら由緒のありそうな平盛家(久連子)には、古びた由来書が家宝として残る。その大まかな内容は、こうである。
「我等此処へ居住すること後世に至り諸人不思議と存す故、此巻へ委しく記し置くものなり…」の前書きのもとに寿永四年三月二十四日壇ノ浦合戦の後、生きのびた平清経以下主従が今治から祖谷、さらに鶴崎~由布院を経て五家荘に落ち着く迄のいきさつが詳細に記されている。
巻末には左大将平清経以下6名の主従の名が記され寿永十三年十月七日と。
平盛家の近くにあるお寺正覚寺にも平家一門の位牌が、そして裏には久連子の里人が平重盛の墓としてお祀りしている苔むした墓石が…。