野田宇太郎著「西日本文学散歩」豊後路の「淡窓の学問伝統」の項に
「貞享三年(一六八六年)以来、日田は天領となって幕府の代官所が置かれた。その代官所御用達として栄えた豪商広瀬三郎右衛門の長男として、天明二年(一七八二年)四月に生れたのが広瀬淡窓である。淡窓の名は建、または求馬(もとめ)といった。幼時から体が弱かったが神童といわれた秀才で、読書を好み誌をよくした。福岡に出て藩儒亀井南瞑、昭陽父子に入門したのは一六歳である。
文化二年、二四歳のとき生涯を学問に捧げる決心をして家督を弟久兵衛に譲り、私塾を開いて桂林荘と名づけた。淡窓の学問は型にはまった漢学や和学でなく、ただ敬天を絶対として和漢新古にこだわらず自由に学ぶという風であったから、入門者も町民や農民が多かった。その数が次第に増したので、文化一四年に塾名も咸宜園(かんぎえん)と改め、大きな学舎を建てた。やがて講義は弟の旭荘や、旭荘の子で淡窓の養子となった林外などに受けつがれたが、淡窓の名は数十巻の著書とともに全国にひびきわたった。塾生も当時全国六八力国のうち隠岐を除く各国から集まった者四、六一八名を数えるに至った。その門弟のなかには高野長英、大村益次郎、平野五岳なども含まれている。淡窓の名をしたって日田を訪れる者も多く、田能村竹田、頼山陽、梁川星巌、紅蘭夫妻、原古処、帆足万里など数えては切りがない。淡窓は長崎その他九州の一部を訪れたほか、ほとんど旅も少く、日田で亡くなったのは安政元年一一月一日、享年七五であった。その後、明治まで続いたこの咸宜園の学問伝統がどのように近代人を育てていったかを知ることは、わたくしのかねてからの宿願でもある。」と書かれている。
× ×
梅原治夫著
ガイドブック大分の旅
1971刊(大分県観光課)では
『広瀬家は、博多屋という屋号をもち、淡窓より五代前に筑前博多から移り住んでいる。
淡窓を偲び、その学徳をしたう意味から咸宜園一帯の町名を「淡窓町」という。
咸宜園跡を訪ねると、先ず目にとまるのは詩碑である。
「道(いう)を休(や)めよ他郷辛苦多しと、同胞友有り自ら相親しむ、柴扉暁に出ずれば霜雪の如し、君は川流を汲め我は薪を拾わん」
いまに残る草星は「秋風庵」といって、淡窓の私邸であった。この周辺広大な地域に学舎がいとなまれた。
詩碑にある「君は川流を汲め・・・」の川は城内川といって、咸宜園の近くを流れている小川である。竹林を通してみる秋風庵に、往時が偲ばれる。』
このような先達が書かれた一文を読むとき、京の風情を、その外見から上みやびのみを受け止めていたことの浅はかさに恥ずかしくなる。小京都といわれるそれぞれの地にゆるぎない精神風土が培われていることを見逃してはいけない。だから小京都として今も存在しているのだ。目に見えないだけに、大切なことだと思う。