相撲甚句はその土地その土地の名物を歌い込むご当地ソングの元祖だ。宮崎なら出てくるのが小村寿太郎だ。小村寿太郎とはどういう人であったか、そして、小京都との関係は。
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寿太郎は安政2年(1855)飫肥城下に生まれる。父は飫肥藩士。藩校振徳堂に学び、貢進生として大学南校(東京大学の前身)に進む。18歳の時、明治天皇、大学南校臨幸にあたり御前講演を行う。明治8年(1875)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学、法律を学んだ。帰国後、司法省に出仕し、大審院判事を経て21年(1888)外務省翻訳局長となる。日清戦争では政務局長。その後、外務次官、駐米、駐露、駐清公使を歴任。34年(1901)、には第1次桂内閣の外相となり、日英同盟に調印。1902年男爵を授けられる。日露戦争後のポーツマス会議に全権として出席し、日露講和条約を締結したことで知られる。
1911年、外務大臣辞任後まもなく死去、57歳。墓所は東京港区の青山霊園。
郷里の日南市には、日本近代外交の基礎を築いた外交官・小村寿太郎の業績を顕彰し、国際交流、教育文化活動、及び世界に飛躍する人材育成に寄与することを目的に国際交流センター小村記念館が設立されている。ゆかりの資料・遺品により、生い立ちから亡くなるまでの年代を追って業績などを紹介している。また、日露講和条約調印時の会議のテーブルを復元するとともに、寿太郎が生まれ育った土壌や功績を作家・吉村昭氏の話も交えて紹介するビデオコーナーを設けている。
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また、寿太郎が学んだことで知られる藩校・振徳堂は天保2年(1831)藩主によって建てられたものだが、実は城下町の保存運動は、まず藩校・振徳堂の修復から始まった。ついで大手門と松尾の丸の復元へ続き、さらに歴史資料館開館へとつながった。同じ頃、町は国道の拡張を迫られ、商人町通りの店舗を移転することになったという。これを契機に城下町にふさわしい白壁と瓦葺の店舗に建て替えられたというのだから、町並み保存のスタートラインに寿太郎の遺徳があったというのもいいすぎではなかろう。小京都・飫肥のそぞろ歩きには小村寿太郎の遺徳をかみしめて歩いてほしい。