国道218号沿い熊本県山都町清和の中心部に「清和文楽邑」がある。今日も貸切バスが並ぶ。そこから歩いて10分の大川阿蘇神社を訪ねる。境内にこの地方特有の「農村舞台」が残っている。
農村舞台——野外に設けられた舞台、多くは鎮守の森の境内に設けられている。境内が村人が集まるのに適した広場であるから。直接的には神様と関係はないが奉納行事も行われてきた——と解するとよいだろう。
農村舞台は全国的に少なくなったが日向往還ゾーンには矢部の小一領神社、男成神社、蘇陽の幣立宮、二瀬本神社などに現存している。
清和にもかつて四つもの農村舞台があったが大川阿蘇神社と御釜神社の二つになった。これら農村舞台(ハード)で公演(ソフト)が頻繁に行われているのは大川阿蘇神社だけといってよい。
神域に立つ。境内に本殿と向かいあうかたちで舞台が建つ。800平方ほどのゆったりした広場を屏風のように老杉が取り囲み、緑に包まれた蒼天のドーム劇場の趣きだ。
間口13、奥行7の舞台、浄瑠璃棚も備え、楽屋は劇団員が泊れるように広い。県下最大級を誇る木造瓦葺きの舞台は村の営みを伝える"有形文化財“だ。静かな初秋の昼下がり、舞台に涼しい風が吹き抜けていた。
毎年の、あの夜の光景が浮かぶ—10月、山の端から月が上る頃「薪文楽」が行われる。爽々とした青竹で組まれたマス席、敷かれた筵の感触が暖かい。マス席に一人ずつ清和美人が侍りカッポ酒が振る舞われる。
お重が開かれ歓談が弾む。薪が焚ぜる音‥‥文楽開演前のひとときだ。都会の常設劇場では味わえない至福、共同体として村人の絆をつくり、エネルギーを発散してきた伝統の農村舞台がここにある。
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「文楽の黒子を脱げば農婦にて/あとは田圃の稲刈りにゆく」
橋本静恵さん(熊本市)の歌が清和文楽の真骨頂を優しい眼で歌いあげている。清和文楽一座にプロはいない。
「農民が習い覚え伝え続けてきたのです」専業の農が暮らしを支えている。
文楽保存会会員18名。(男12名、女6名)忙しい農作業の段取りをつけて、練習に公演にいそしんでいる。平均年齢64歳。
その一人、吉田敬一さん(68歳)を訪ねた。
田舎の朝は早い。8時前なのに、もう畑仕事を終えて耕運機で帰る吉田さんと道角でばったり。冒頭の歌は農婦だが吉田さんは農夫。
耕運機についていく。慶応年間に建った土蔵のある大きな屋敷、門から母屋まで一面の花が咲き乱れ野草園のようなお庭を通る。
孫が小学一年を頭に三人、の吉田さんはお孫さんを幼稚園に送るのも日課の一つ。そして
「11時には公演がありますけん行かんば…」。
忙しさを楽しむように日焼けした顔がほころぶ。
野良着のポケットから取り出した台本を丁寧に机の上に置いた。手垢にまみれていた。少してれくさそうに「暇さえあれば繰りかえし読んで語っています。意味を理解し心が判らんと表現ば出来まっせん…」。
吉田さんは「足遣い」が専門だがときには主遣いもする。
文楽=人形浄瑠璃は三業一体の芸である。三味線、浄瑠璃、人形の三つの芸の一体化、さらに人形遣いは、主遣い(頭と右手)、左遣い(左手)足遣い(両足)の三人が受け持つ。
足の動かし方一つで嬉しさ、悲しさの表情を工夫する。
「沢市っつあん(壷坂霊験記)のときは、私も目を閉じて盲目の沢市っつあんになり切って演じています」「私の魂が人形に乗り移らんば…」「間も大事ですけん」「いつも素手で足遣いの稽古を絶やしません」と手ぶりを交えて語る。
「あとの二人との呼吸も合わんと。邪魔にならんごつ、私はまだ未熟じゃけん」そして皆で「太夫を少しでん助けてやらんと」。清和の場合、一人で三味線と浄瑠璃を語る。異例だが、その竹本友寿太夫(倉岡寿典氏)は役場の公務員、阿波まで行って修業を積んだ。舞台が終われば、すぐ横の物産館の売場に立った。無欠勤で年間250回もの舞台を務め素晴しい肉声で「熊谷次郎直実」や「お里」を弾き、語り続けている。