国東半島の付根、杵築の浜に鎮まる。美しい松林が2Km続く海岸線を背にして、風光明媚な地。宇佐神宮とのかかわりが深い。 かつて、宇佐神宮から奈多宮まで行幸会が行われていた。この時、遷された御神体の神像が安置されている。「陣道面」と呼ばれる異形の面(ドングリ眼とダンゴ鼻)も保存されている。行幸会の先導役を務めたものであろう。
国東半島にしか見ることの出来ない特有の形式をもつ石造美術品を国東塔と呼ぶが、岩戸寺の国東塔(国重文)はその中でも国東最古の代表的宝塔で、安定した優雅な姿を保っている。岩戸寺には薬師如来像や有銘仁王中最古の仁王像(県有文)もあり、見るものは多い。また鬼会も催される。
胎蔵寺より鬼が一夜で築いたと伝えられる約250mの石段を登り切ると、突如開けた空間より巨大な磨崖仏が現われる。左が不動明王(8m)で右が大日如来像(6.8m)。この磨崖仏は国東の代表的存在というより、我が国最大級の巨像であることで有名。
仁開菩薩の開基で、養老年間に一本のカヤの木から作られたと伝えられる。富貴寺大堂は国宝であり、九州最古の木造建築物である。藤原時代の粋を伝えた阿弥陀如来坐像(国重文)、極楽浄土の盛況が描かれてある壁画(国重文)や笠塔婆かある。
屋山の中腹にある長安寺はかつて六郷満山の惣山として栄えた平安期以来の天台宗の古刹。ここに藤原芸術の至宝というにふさわしい太郎天像と2童子立像(それぞれ国重文)がある。この寺は銅板法華経(国重文)のある寺としても知られ、妙法蓮華経が刻まれてある。
宇佐八幡宮の祖社と言われる古社。境内の広い三角池(みすみいけ)が内宮、社殿が外宮。養老三年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱で、大伴旅人が率いる大和朝廷軍と宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈ってつくった薦枕(こもまくら)をご神体として日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われている。
田染荘小崎地区に水田が開発されたのは、743年墾田永年私財法の成立により開墾した水田の私有が認められるようになって以来のこと。開墾された水田は、宇佐八幡宮が支配する荘園となり、田染荘が誕生した。田染荘は、宇佐八幡宮の「本御荘十八箇所」と呼ばれる根本荘園の一つで、最も重要な荘園。現在もこの地域は水田や周囲の景観を千年の昔そのままの姿で守り、受け継いでいる。田染川一帯には「元宮磨崖仏」はじめ、「間戸岩戸」「大応寺」など見るべき史跡が多い。