大友宗麟とその時代を描いた遠藤周作の「王の挽歌」に天正少年使節という一章がある。
「この学校(有馬セミナリオ)から何人かの少年を選び、われわれの国を見せます。…彼等が見聞したことを日本人に語り伝えるでしょう」ヴァリニャ―ノ神父の顔は上気して興奮していた。(遠藤周作「王の挽歌」より)
1582年2月20日、有馬セミナリオでラテン語を学び、オルガンやギターの好きな4人の少年は長崎の港から、南蛮船に乗り込んだ。彼らは、日本のキリシタン大名の名代として、ヴァリニャ―ノ神父らとともにローマへ旅立った。
出発当時わずか13歳前後、有馬のセミナリオの一期生であった。荒波を乗り越え、たどり着いたヨーロッパで、彼らはローマ教皇やスペイン国王に謁見し、人々の熱狂的な歓迎を受けた。
長崎を旅立って8年5ヶ月の後、帰途の船が再び長崎の山々を目の前にした。
「苦難に満ちた長旅。危険や病気で命さえ失うかもしれなかった日々。…そして一日として忘れられなかった故郷。その日本に今、やっと帰れたのだ。ローマ法王の謁見を受けたという誇りが使節たちの胸をふくらませていた。」(遠藤「王の挽歌」より)
再び長崎の地を踏んだ時、4人は20歳を超えていた。
しかし、彼らの偉業は、禁教という歴史の波にもみ消されて忘れ去られた。彼らが再び、注目されたのは、明治という新しい時代を迎え特命大使としてヨーロッパを訪れた岩倉具視が、ヴェネチアで「大友氏ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書簡2枚」の存在を知らされてからのことだ。海外に残された記録から消し去られた南蛮・キリシタンとその時代の日本が見えてきた。
遠藤周作は九州各地を丹念に歩き回り、内外の資料を詳細に読み解き、沈黙する歴史の向こう側から生きた人々の肉声を甦らせた。遠藤ファンならずとも歴史と人間性を求めるこころの旅が深く沁みてくる。彼らの故地(ふるさと)には、彼らを物語るものは、多くは残っていない。それでも現地ならではの感慨を汲みとってほしい。
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