伊東マンショは、現在の宮崎県西都市都於郡に生まれる。日向国主・伊東義祐の孫で、大友宗麟とは血縁はないが、遠い親戚にあたる。大分市の遊歩公園に銅像がある。
北九州6国を治めた領主。1578年耳川の戦いに敗れ、勢いを失う。領地を九州のキリシタン文化の中心として繁栄させた。銅像は大分市にある。
大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟。デ・サンデ「天正遣欧使節記」の主人公。雲仙市千々石総合庁舎横に銅像がある。
元和元年(1615)建立の専照寺(雲仙市)がコレジオ跡ではないかといわれている。
日本の古地図と宣教師の報告書によって、考証することが出来たのは第3の場所だけ。第1と2は日本の資料がなく、不明。南島原市の北有馬駅から徒歩15分。
「ボローニャ元老院日記」から波佐見の生まれ、原中務の子であることがわかる。ラテン語で旅の報告を行ったものが「原マルチノの演説」としてゴアで印刷され、16ページの本として残されている。波佐見町総合文化会館に銅像がある。
ローマでは教皇グレゴリウス13世から手厚い加護を受ける。1633年10月21日、信仰を棄てず殉教。西海市の中浦ジュリアン記念公園に銅像。
中浦(現・西海市)の宗像神社近くに御園(みそね)という字があった。そこの館(たち)と呼ばれたところが出生地として史跡に指定され、記念公園になっている。
大村を本拠に大村湾周辺を治めた。1563年受洗、日本最初のキリシタン大名となる。領民を集団で洗礼させる。名代として遣欧使節を派遣。
大村市史料館前の広場にリスボンのベレンの塔をイメージした塔が作られている。使節の4人がヨーロッパで始めて目にした美しい建物を記念している。
大村市立図書館の2階。天正遣欧使節資料の宝庫で、日欧交渉史の研究者・松田毅一氏の蔵書が「南蛮文庫」として公開。
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