ヴァリニャーノは、(日本使節をローマの法皇庁に送る計画を)九州の大名である豊後府内の大友宗麟、島原の有馬晴信、肥前大村の大村純忠の3人にすすめた。宗麟はフランシスコ、晴信はプロタジオ、純忠はバルトロメオと、それぞれ教名をもつキリシタンであった。3人ともヴァリニャーノの申し出を快諾した。
ヴァリニャーノは、日本伝道の活況をローマに宣伝して、伝道費も増額してもらいたかったし、日本人に彼の地を見学させることによって、天主教への信頼を深めさせたかった。
『三人の大名は、信仰使節を派遣することで、外人の歓心を買い、武器その他の貿易をさかんにしたいという下心もあった。戦乱絶える間もない怒涛の時代だった。…
大友宗麟は、はじめは安土のセミナリオ(教会)で修業している甥のジェローム祐勝を派遣するつもりだった。祐勝は教会でも秀才のほまれ高く、グラバチエンバロと称する楽器の名手として織田信長からも激賞されている少年である。
だが、出帆の時日の関係で、急の間に合わないために島原の有馬学林に遊学中の伊東祐益に変更された。
幼名を虎千代といった祐益は、宗麟の外孫にあたる少年で、そのとき13歳だった。ドン・マンショというのは教名で、みずからは鈍満所と署名した。
この伊東マンショが大友家の正使となり、有馬、大村の両家の正使として、千々石直員がえらばれた。直員は教名をミゲルといい、有馬晴信の従弟にあたり、大村純忠の甥でもあった。
ほかに、副使として、肥前中浦の産である中浦ジュリアンと、同じく肥前波佐見の原マルチノ。中浦はマンショより一つ下の12歳。他の二人の年齢ははっきりしていないが、いずれも14~15歳の少年だったとつたえられている。
× ×
訪欧使節が乗りくんだのはポルトガル人のイニヤシオ・デ・マリという商人の帆走船である。町ノ上夫人(注、マンショの母)は長崎の港まで、マンショを送ってきたが、生別のあまりのかなしさに、狂わんばかりに歎き泣いたということである。
その後、伊東マンショら少年4人は長崎を出てから3年目の春、ローマに到着した。
法王拝謁式が行われたのは、一行がローマに到着した翌日である。この日はローマは全市をあげて一行を歓迎した。使節はそれぞれひざまずいて、この世の聖なるもの教皇の足に接吻した。すると教皇もまたからだを屈して、かれらを抱き起こし、額に接吻をあたえた。海路幾万里、栄光の座に立って、少年たちはことごとく感涙にむせんだ。そして、4人の使節は「金の拍車の騎士」に任じられ、教皇は手ずから金の鎖を首にかけてやった…。』
これは作家・劉寒吉が飫肥に伊東マンショの母の墓を訪ね、撫でた墓の冷たい感触が、遠いインド洋から喜望峰をめぐってイタリアに行くイスパニア船の帆綱への幻想を誘われたということから辿られた物語である。その墓は日本キリシタン宗門史にもっとも華やかな記録をとどめながら伊東マンショにとってはゆかりの唯一の墓碑であると紹介している。