薩摩藩主島津斉彬が近代化の動きにいち早く対応するために、反射炉やガラス製作所などの工業生産拠点として造ったのが尚古集成館だ。また、斉彬は大型船・蒸気船建造を申請する際に白い帆に太陽を表した日本船の総印として使用することを進言した。「日の丸」である。それから外国に対する日本の標識として使用されるようになったという。
日本初のボウリング場は出島に出来た。外国人居留地に開設され、社交サロンとして出島の外国人たちのレクリエーションの場だったという。1861年6月22日付で新装開店の広告が残っており、その日がボウリングの日となった。「ボウリング発祥の碑」が建つ。
板付遺跡では、縄文時代晩期末の水田跡が日本で初めて確認され、これにより日本の稲作の起源が弥生時代初期から縄文時代末期まで遡ることになった。板付遺跡付近は弥生文化が形成発展された土地。文化発祥の由来を知る上で重要な遺跡だ。現在は遺跡公園として整備され、隣接する「弥生館」では板付遺跡や弥生時代の文化について学ぶことができる。
菜畑遺跡では、縄文時代晩期から弥生時代中期の水田跡が発見されている。水田跡は、畦畔や矢板列によって区画されており、炭化した米や木製農具とともに縄文時代晩期後半の土器が出土し、日本最古の水田跡として注目される。 現在、遺跡は整備され、竪穴住居や水田が復元されている。また、資料館「末盧館」も建設されている。
バナナが日本に輸入されたのは明治36年ごろ。台湾から門司港に荷揚げされた青いバナナを地下室で蒸して売り出していた。輸送中に蒸れてしまったもの、傷がついたものなどを出来るだけ早く換金する手段として露天商によって売りさばいたのが、バナナの叩き売りの始まり。ユニークな口上の叩き売りは、門司港の名物。