稲の栽培の始まりは、諸説あり長江中流域から雲南省、インドのアッサム地方のどこかしらといわれている。浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡からは稲穂の描かれた7千年前の土器が出土している。日本には紀元前5世紀頃伝わり、紀元前3世紀には列島に広がったといわれる。最古の水田跡が発見されたのが菜畑遺跡。また同じ頃の遺跡として福岡県板付遺跡がある。いずれも北部九州だ。稲作は、大陸から朝鮮半島を通って日本に伝わったとされる。日本最古の水田跡が大陸から近い北部九州にあるというのも頷ける。
弥生時代という時代は、弥生式土器が使われ始めた頃からとされる。つまり、土器の型式の違いで一つの時代として区分されている。ところで、最古の水田跡が発見された菜畑遺跡では山ノ寺式という縄文時代晩期の土器型式が出土している。さすれば、菜畑遺跡は縄文時代の遺跡なのかということになるが、一方で文化の変わり目を時代区分とする説もある。稲作の始まりは、それまでの狩猟や採集と違う、計画的で定期的な生産の始まりである。つまり、一つの画期的な文化が始まった時期。稲作の始まりをもって、弥生時代の始まりとする場合、弥生時代の始まりは早まることになる。ちょうど、菜畑遺跡はその時代の過渡期を映す。どうして、文化が始まったのか。古代の謎を紐解くために重要な役割を果す遺跡であり、日夜研究が進められている。“発祥"の地に思いを馳せてみよう。
薩摩藩主島津斉彬は、1853年(嘉永6年)11月、幕府に大船・蒸気船建造申請を行った時、日本船の総印として白い帆に朱の日の丸を使用した。さらに、「日の丸」を日本全体の船印にするよう進言した。幕府もその必要性を認め、日の丸を日本全体の船印とする旨を1854年(安政元年)全国に布達した。
1855年(安政2年)、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸・品川に入港した時に、初めて我が国の船印として日の丸が揚げられた。
1870年(明治3年)1月27日、日の丸は日本の国旗として制定された。
(鹿児島県ホームページより)