炭鉱王・伊藤伝右衛門の旧宅で明治期に建てられ、大正期・昭和初期に増築された。 その粋を凝らした豪邸は、 広大な庭園とともに歌人の柳原白蓮が起居した建物として飯塚市内に残る数少ない石炭遺産であるとともに「炭鉱王 伊藤伝右衛門」の功績を伝える文化遺産の一つだ。
明治31年(1898)に開坑。第一立坑と第二立坑があり、当時世界でも最新鋭の排水ポンプ「デービーポンプ」を備えていた。明治・大正期の主力坑として年間40~50万トンを出炭し、昭和6年 (1931)に閉坑した。第一竪坑は埋め戻され、現在は第二竪坑櫓と巻上機室などが残っている。
大牟田は、三井鉱山を中心に三井系企業の経済基盤として発展してきた。三井港倶楽部は明治41年、三井関係の社交場としてはもちろん、外国高級船員の宿泊や接待の場所、皇族、政財界人の迎賓館として広く利用された。現在も明治期の古典的な香りを残し、結婚式場、レストランとして使われている。
万田坑は三井鉱山が炭鉱業界の模範となるような坑口施設をつくるため、総力を挙げて建設したもので、当時は日本最大の規模を誇った。第一立坑と第二立坑からなり、第一立坑は1951年に採炭が中止されて、その後解体された。第二立坑は1998年に国の重要文化財に、2000年には国史跡に指定された。
明治20年に開港。工事には、近くの大矢野島の飛岳から切り出した砂岩を材料に、埠頭や排水河川、橋などが造られ、また、洋風の建物が建つ街並みが形成された。明治初期に国が築港した港のうち、現在も当時の施設が残っているものとしては、全国唯一の港湾史跡として評価を受けている。
幕末時の薩摩藩主・島津斉彬は日本の近代化をリードする工業生産拠点をつくり、大砲鋳造や洋式帆船の建造を行った。1865年には機械工場が完成し、藩の技術・工業力は飛躍的に発展し、明治維新につながることとなる。当時の機械工場は現在、尚古集成館本館として鹿児島の近代化を紹介する博物館になっている。