ご存知の「炭鉱節」 月が出た出た月が出た‥‥ とか 一山二山三山越え‥‥ の歌は明治後期になって田川地方で歌われ出した。
過酷な労働の中から自然発生的に生まれてきた多くの仕事唄の一つで宴席に持ち込まれ、座敷唄として広く歌われるようになった。 一山、二山、三山‥‥は香春岳の一の岳、二の岳、三の岳のことである。
歌詞は変わる。
「上も行く行く下も行く
一度おいでよ折尾駅
なんぼ別れがつらくとも
別れにャならない上と下
サノヨイヨイ‥‥」
のうたもある。折尾駅は鹿児島本線と筑豊本線とが立体交差している。これにかけた艶やかな歌――なんだか、そっくりなのがあるのを思い出す。「上も行く行く下も行く、君は省線僕はバス、辛い別れのガード下」。
立体交差は、あれこれと例えられて楽しい。
ところで
♪♪伯爵夫人となるよりも
月の射しこむあばらやで
主さんお庭でわら仕事
わたしゃおそばで針仕事
サノヨイヨイ‥‥♪♪
この歌が白蓮夫人をモデルにしたものであることを知っているだろうか。
まこと白蓮事件はセンセーショナルであった。大正10年10月22日付の大阪朝日新聞紙上で、伯爵夫人こと伊藤■子は、夫伊藤伝右衛門へ絶縁状を公開した。
新聞にこうある。
同棲十年の良人を捨てて 白蓮女史情人の許へ走る
悩みの生に新しく得た愛人 夫人とは七歳下の法学士宮崎龍介君
冷たい涙の同棲十年の生活、坑夫上がりの無理解に虚げられた艶姿
最後の手紙 良人へ巻紙一本 に認めて 着物も指輪も悉く送り返す
宮崎君の告白 燁子を救ってやるのは僕の義務です
なんと!なんと!
50歳の伝右衛門が正妻を亡くし、後妻として伯爵柳原家から嫁いだ燁子は25歳であった。
伝右衛門は燁子のために福岡市にも、別府市にも豪邸を建ててやった。(ここで宮崎龍介との恋が芽生えた)「銅(あかがね)御殿」と呼ばれていた。(二つとも今はない)その跡地を知る人も少なくなった。福岡市の邸の門だけが、今の飯塚市の本邸に移されている。
いま、飯塚の旧居は、ブーム的な人気のもとに公開されている。
訪れた人の中に混じって会話を聞いた。
「あなたならどうする?」
「やっぱりお金はあった方がいいよ、浮気は別にする」中年の女性二人連れだった。
伝右衛門邸が人気があるのは、物語があるからだろう。
歌は世につれ、世は歌につれというが、まさに、世は、変わりつつある。確実に。