九州の近代化遺産(その2)のうんちくの項を参照。
伯爵家の娘・柳原子は、筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門に嫁いだ。彼女は、地位も、財産もかなぐり捨てて宮崎龍介のもとへ走る。 以後、貧しい夫・龍介を支えて愛を突き通した。
筑豊の炭住(炭鉱住宅)住まいの幼少時代から主人公・信介を慕い、寄り添うヒロイン牧織江。五木寛之の小説。筑豊の若い血がよく描かれている。かつて石炭を運んだ遠賀川が当時の物語を伝えている。
天皇の命を受けて松浦の地を訪れた狭手彦と恋仲になった佐用姫。狭手彦の出陣で別れ別れになるその時、別れの辛さに姫は七日七晩泣き続け遂に石になったという。望夫恋と呼ばれる石は今も一途な女性の姿を伝える。
幕府の鎖国政策に伴い、長崎市中に在住していたポルトガル人の混血児287人がマカオに追放された。その中に14歳のお春がいた。故郷へ帰ることを神仏に祈りながら、到着後6年、21歳の時、平戸生れのオランダの混血児シモンセンと結婚。夫は東インド会社に入り、3男4女をもうけ、幸せな生涯をおくった。 お春が故郷の長崎へ送った「ジャガタラ文」には「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と書かれ、望郷の思いが伝わる。しゃがたらお春の碑文は長崎市玉園町聖福寺の境内にある。
シーボルトは文政6年(1823)オランダ商館付き医師として長崎に。日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究。鳴滝塾を開き、高野長英など多数の人材を輩出した。文政11年(1828)帰国の際に「大日本沿岸興図全図」などの禁制品を持ち帰ろうとし、翌年国外追放となる。いわゆる“シーボルト事件”。安政6年(1859)オランダ商事会社の顧問として再来日し、江戸幕府の外交にも参画。長崎の地で楠本タキ(お滝さん)と出会い、愛に生きた。お滝さんの名にちなんでアジサイに“オタクサ”と名付け持ち帰ったのは有名な話。
アメリカ海軍兵士のピンカートンに身請けされた15歳の芸者、蝶々さん。日本滞在中だけと軽い気持ちで結婚するが、ピンカートンは帰国。それでもきっと帰ってくると3歳の息子と帰りを待っていた。母国で結婚した妻を連れて長崎に立寄った彼は、蝶々さんが待っていたことを知りいたたまれずその場から逃げてしまう。すべてを悟った蝶々さんは、父の形見の短刀で自害して果てる。