日本で初めての本格的な近代製鉄所で、4年の歳月をかけて完成。明治34年(1901年)に火入れされ日本の製鉄が始まった。何度かの改修を経て、昭和37年に日本初の高圧高炉へと進化。近代製鉄発祥の地として東田第一高炉一帯は、平成8年に市指定文化財(史跡)に指定され保存整備されている。
日本最初の反射炉跡。長崎港警備にあたっていた佐賀藩の鍋島直正公は、築地に日本最初の反射炉を建設し日本で初めて鋼鉄製の大砲を鋳造した。反射炉とは、鉄などの金属を溶かすための炉。大砲完成後、幕府から大砲の注文が入り、ここだけでは製造が間に合わず1853(嘉永6)年新たに多布施反射炉も増築された。
敷地約7,600㎡。炭鉱事業で成功した高取伊好(たかとりこれよし)の旧宅で、和風でありながら洋室があるなど明治時代の邸宅の特徴を備えている。大広間の能舞台、絵が描かれた杉戸、動植物をテーマとした欄間、洋間の漆喰天井など豪華な意匠が目をひき、建築物としても優れている。
薩摩藩の五代才助や小松帯刀が建設計画したドック(洋式船を修理する所)。トーマス・グラバーの出資も得て明治元(1868)年に完成した。修理船をレールに乗せて海面から引き揚げる構造がソロバン型だったので、通称「ソロバン・ドック」と呼ばれた。
軍艦島は「端島」の俗称で、戦艦「土佐」に島影が似ていることから名付けられたといわれる。1810年頃石炭が発見され、明治時代に本格的な採炭が行われた。当時は作業場をはじめ住宅や公共施設、小中学校、共同販売所、映画館、料理屋、娯楽場、病院などがあり、近代的な町が築かれていた。
日本で初めて洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱。開港により長崎入港の外国船が増えると、その燃料として石炭の需要が増大した。当時高島は佐賀藩の領地だったことから、この石炭を外国人との合弁で開発しようと、藩は長崎のグラバー商会との間に事業契約を結び共同経営を行った。
鎖国が終ると長崎・神奈川・函館の3港は世界に門を開いた。様々な外国商人が大浦居留地付近に居を構え貿易を営み、その一人が英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー。旧住宅は数多くの洋風建築の中で独特の様式を残す、日本最初の木造洋館として貴重な文化財となっている。