1500坪の見事な庭園に囲まれた伝右衛門邸は今も白蓮が10年間起居した当時の煌びやかさを保っている。白蓮の希望で九州で初めて採用されたという、水洗トイレ、アール ヌーボー調を採り入れた洋間の応接間、食堂、書斎は建築学的にも価値があり、白蓮を偲ぶものとして大正、明治の文化遺産として、その保存に市民が動き始めている。(現在は一般公開はされていませんので中には入れません。外からの見学になります。)
石炭の街、飯塚が生んだ最大の文化遺産。大正11年大阪の「中座」を模して「中座」をオープン。その後災害で全焼、台風で全壊等のこともあり、昭和6年「嘉穂劇場」として再生。今日まで70余年、江戸歌舞伎上演可能設備(回り舞台、東西の花道、すっぽん、〈迫り〉など)をもつ大衆演劇の殿堂として多くのファンから愛され平成15年7月に水没事故があったものの、市民パワーや芸能人多数の応援があって見事復興、飯塚の文化活動の核としての存在感を示している。
「いぶき館」交流棟として復元された建物は、もともとは筑豊の石炭王・伊藤伝右衛門が、現在の飯塚市にあった邸宅の一部を宝珠山村紙屋に移築して、宝珠山炭坑幹部社員の社交場「炭坑クラブ」として使ったものと伝えられている。
いぶき館交流棟は旧宝珠山村(現東峰村)に炭坑を開いた筑豊の石炭王伊藤伝右衛門が、昭和8年ごろ現在の飯塚市にあった邸宅の一部を、遠く離れた宝珠山村に移築し、「炭坑クラブ」として利用していたものです。
俳優の高倉健さんは、父親が宝珠山炭坑に勤めておられたので、小学校の頃、村を訪ねた時にこのクラブに泊まられていました。
炭坑閉山後は旅館「ほうしゅ山荘」、そして「いぶき館」と三度の解体・移築を経た歴史ある建物です。高い天井と巨大な松の梁がダイナミックな空間をみせています。伊藤伝右衛門やその妻柳原白蓮をビデオや実物展示・グラフィックな空間を見せています。
明治30年、亡命してきた中国の革命家・孫文が訪れ宮崎滔天と綴った筆談書や、孫文が親しんだ梅の古木、泉水などがその頃の様子を偲ばせる。近代日中交流史の原点でもあったこの家は六男民蔵の没後永く人手に渡っていたが、現在は荒尾市の所有となっている。ここでは近代日本のあり方に、全身で立ち向かった宮崎兄弟を知ることが出来る。白連の恋人・龍介が滔天の長男であることを知る人は少ない。
●飯塚市の近くに脇田温泉がある。山の里の雰囲気につつまれている。福岡市が近いので福岡からの客も多い。
●日田温泉。三つの川が集まる水郷日田は、温泉も有名。単純泉、別名子宝温泉として知られる。屋形船遊び、鵜飼いが楽しめる。
●筑後川沿いの塚原温泉、天ヶ瀬温泉、宝泉寺温泉。塚原温泉は酸性、硫黄分が強く、石鹸も泡立ちにくい。
古い由緒の天ヶ瀬温泉は野趣溢れる混浴や川の中の温泉などもある。