大正10年(1921年)夫・伝右衛門への絶縁状を新聞紙上に公開して、恋人である宮崎龍介のもとに出奔、世間に大きな衝撃を与えた。
長男・香織(かおり)の戦死という悲運もあり、戦後は「万国慈母の会」を組織して世界的な平和運動を展開するとともに、歌誌「ことたま」を主催して多くの歌人を育てた。昭和42年(1967年)2月22日東京・池袋の自宅で82歳の生涯を閉じ、夫、長男とともに相模湖畔の石老山・顕鏡寺に眠る。
万延元年(1860年)穂波郡幸袋村(ほなみぐん・こうぶくろむら)に伝六の長男として出生する。幼少のころから魚の行商や川舟の船頭などに従事し、苦労して成長した。石炭採掘に関する独特の勘と度胸で炭坑の開発に成功し、保有の牟田炭坑他が官営・八幡製鉄所に買い上げられた資金をもとに、終生の本城となった中鶴(なかつる)炭坑を現・中間市に開坑し、「築豊御三家」と呼ばれる貝島、麻生、安川と比肩する地場資本の雄となった。嘉穂技芸女学校(現・嘉穂東高校)の土地建物の全てを寄付したり、伊藤育英会を創設したりして地域の教育に貢献した。
また、衆議院議員に就任して、遠賀川改修工事に献身的な活動を続けるなど、地元経済の発展、文化の振興に多くの足跡をのこしている。
明治25年(1892年)、現熊本県荒尾市出身で中国革命運動の志士・宮崎寅蔵(滔天)の長男として生まれる。父滔天は「革命のための資金は作れるが、家族を養うための金は出来ない」と喝破し、孫文の中国革命を支援し続けた。龍介はそんな父親の姿を見ながら大きくなる。
東大法学部で出版にも従事するというインテリさとともに、革命家の長男としての男らしさにも白蓮は魅かれたのかも知れない。