隣りに生家(国東市安岐)
江戸時代中期、条理学という哲学を体系づけ、豊後聖人と称される学者、三浦梅園(1723〜89)の遺品を数多く展示した資料館。展示物は、国の重要文化財に指定されているものが多い。
1万円札の顔であり、慶応義塾大学の創始者として知られる福沢諭吉が、成人し長崎に遊学するまで住んだ家(国指定文化財)。隣接する福沢諭吉記念館には、貴重な資料が多数展示されている。
豪商の家庭に生まれた広瀬淡窓(1782〜1856)は、幼いころから学問や詩作にすぐれ、24歳で私塾を開講。さらに36歳のとき新築した塾を「咸宜園」と名づけた。50年間に淡窓が教えた門弟は、62の藩から約3,000名にものぼる。
破傷風の治療法やペスト菌の発見者として知られる北里柴三郎(1853〜1931)は、小国・北里の庄屋の長男として生まれた。15歳で医学の道に進み、コッホに従事してのちに「日本の細菌学の父」と呼ばれるようになった。生家の窓からは九重連峰が‥‥。
岡藩の藩医や文吏を勤めたあと画業に専念しその作品で全国に名を馳せた画聖・田能村竹田(1777〜1835)。彼が生まれ住み、文政元年には頼山陽をもてなしたこともある家や茶室などが、当時の姿のまま残されている。
明治時代の国士にして革命家、宮崎滔天(本名寅蔵・1871〜1922)は、荒尾の篤望家の生まれ。中国の革命家・孫文と親交をもち、この生家に、懸賞金1万円がかかった亡命中の孫文を2週間かくまった(明治30年)。生家には資料館も併設されている。