宮崎滔天(本名寅蔵、戸籍は虎蔵)は、明治四(一八七一)年一月二三日、熊本県玉名郡荒尾村大字荒尾九四九番地(現、荒尾市)に八男として生まれている。父政賢は、六〇町歩の郡内屈指の地主であり、細川藩に仕え、一領一疋の郷士待遇を受けていた。明治に新政府が樹立されると、名を長蔵と改め、荒尾村に自由郷を築き、村長になるのが終生の夢であったといわれている。この夢は晩年の滔天に引き継がれている。自由民権運動の先覚者を父にもった滔天は、父の理想を実現しようとした八郎(二男)、民蔵(六男)、彌蔵(七男)らの薫染により、その運動の退潮期に多感な青春を過ごすことになる。西南戦役の際、西郷軍に響応した嫡男八郎を失った長蔵は、「官の字の職に就くべからず」と残った息子たちに厳命している。宮崎家の黙契となった反官意識と自由民権志向は、同志的結合の性格が濃い三人の兄弟に受け継がれ、それぞれの立場で実践されていった。
「先天的自由民権家」と自称する滔天は、既に小学校在学中作文に「自由民権」の字を濫用し、教師の譴責を受けている。その後、徳富蘇峰の大江義塾を中退し、上京して東京専門学校に入る。しかし、ここも退き、キリスト教に入信して長崎のメソジスト系のカブリ校に移るが、宗教によって民衆の貧困は救済できず、しかも社会の改革は「腕力の権」に頼るはかはないという信念のもとに、最も可能性の高い中国の革命を支援することになる。
また、山約水盟会を率いていた前田案山子邸(玉名郡小天町)へ出入りし、三女のツチと知り合い、恋か革命かで揺れたものの明治二五(一八九二)年には結婚してしている。前田家は、中江兆民が訪れたこともある民権運動のメッカで、二女のツナ(漱石の『草枕』のモデル)は、後に民報社の台所を預かることになる。ー中略ー
明治四四(一九一一)年、辛亥革命が勃発すると中国へ赴き、孫文らを支援した。滔天は、革命後も中国へ渡り孫文らの運動を後押しし、孫文をして「革命におこたらざるは宮崎兄弟なり」と言わしめた。滔天の活動は辛亥革命でピークを迎える。
その後は、「大亜細亜主義」(「立候補宣言」)の確立を提唱して衆議院議員選挙に立候補したものの最下位で落選し(大正四年)、対華21カ条要求(大正四年)や同志黄興の死(大正五年)といった状況の変化の中でしだいに書斎の人となる。—中略—
なお、長男龍介は東京帝国大学新人会の創設者の一人で、柳原子との恋は白蓮事件として耳目を集めた。
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荒尾市宮崎兄弟資料館発刊
編集制作・熊本出版文化会館
☎096‐354‐8201
「夢翔ける(宮崎兄弟の世界)」より引用
白蓮夫人こと柳原子のことはNo.
45でとりあげた。
漱石の「草枕」に登場する風呂場の美女・那美さんのモデル(前田ツナ(卓子))は滔天の妻・ツチである。
長蔵(明治12歿、62歳)
八郎(二男)(嘉永4—明治10・4・6、27歳)
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虎蔵(滔天)(明治3・12・3—大正11・12・6、53歳)
サキ(明治42歿、82歳) ├ 龍介(長男)(白蓮)と結婚
八男四女あり ツチ(明治4・12・19—昭和17・12・23、72歳)