貝原益軒の「筑前国続風土記」にある無実を訴える娘の亡霊の物語り。
聖武帝の頃、都から佐野近世なる者が筑前博多の守護として下ってきた。彼の妻は娘・春姫を残して死んだ。後添えの妻は先妻が残した春姫とそりが合わぬ。陰謀をもって父・近世に娘を殺させた。‥‥後に春姫の無実を知った父・近世は供養の塚と七つの堂を建てた。奥の堂はその一つ、地名として残っている。濡衣のコトバの起こりとなった‥‥という。
夫・大伴狭手彦を見送り続けて、石になった(望夫石)佐用姫の悲しく美しい話。
宣化天皇の御代(536)百済が助けを求めてきた。援軍の将・大伴狭手彦は唐津へ。軍船建造の間、滞在し、その間、土地の娘・佐用姫との間は固く結ばれた。出発の日、遠ざかる船を鏡山山頂で袖(領布)を振って見送った佐用姫は、さらに船を追って呼子の浦から加部島へ渡って天童山の頂きに佇んだまま石となった。
天草島原の乱後、寛永16年(1639)、混血の女たちを国外のジャガタラに追放した。彼女たちは異国から日本への望郷の手紙を送る。
お春、コルネリア、こしょうの3人の文が残っている。こしょうのふみとコルネリアの彫像は平戸資料館に。お春の碑と吉井勇の碑が聖徳寺にある。
西有家町に伝わる代表的な昔話し。高岩山に住んでいた大男の五郎はともかく味噌が大好きだった。
一日に味噌を4斗も食べる‥‥。人呼んで味噌五郎。
雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗い、高岩山の八間石に足をのせて海を眺めて楽しんでいた。
ゆかりのお手玉石や足跡の窪みが残っている。人に好かれ村人の為に働いた。
像が西有家町に残っている。
雲仙の温泉の開湯は17世紀頃とされ、硫黄、鉄分を含んでいるので切り傷、皮膚病全般に効果。
この歴史の古い雲仙温泉で紙芝居が始まった。
有志が手づくりの紙芝居物語を演じる。足湯や宴会など人の集いの場で演じられる、「童心に帰る」と人気。