博多人形に作られ、宴会では「黒田節」が唱われ槍と大盃を持っての踊りもある‥‥しかし、深いことを知っている人は少ない。
黒田長政の家臣・母里太兵衛は福島正則への使者に出された(京都でのことである)。使者として大切な任務、酒好きな母里であったが、任務を終えるまで禁酒を己に誓っていた。福島正則が、「酒を飲め」と盃を出す、「飲めませぬ」と母里。「この大杯、飲み干したら望みの品を与えるぞ」‥‥断りきれず母里は一升二合入りの大杯を三度飲みほし、希望のもの=正親町天皇から賜わった家宝の槍を手にしたという物語り。いま、その槍は福岡市博物館に展示されている。福岡城跡に母里太兵衛の長家門が移築されている。母里太兵衛の墓は麟翁寺にある。
娘・春姫が、夜ごと漁師村へ出て、釣衣を盗むという噂に父・近世が確かめると姫の寝所に濡れた釣衣があった。(実は仕組まれた罠であったが)「物を盗むとは」父は一刀のもとに娘を切った。
濡衣塚は石堂川の石堂大橋のほとりに。供養の七つの堂の名は普賢堂、辻の堂、石堂、奥の堂、萱堂、脇堂、瓦堂で、地名として今も残っているのは奥の堂がある。
「赤い花なら曼珠沙華/オランダ屋敷に雨が降る/濡れて泣いてるジャガタラお春/未練な出船の/あぁ鐘がなる‥‥」
長崎を代表する歌として歌われる。哀調の調べはなにやら切ない‥‥。「黒田節」と同じくこの歌の「意味」を知って歌う人は少ないと思うが。
その歴史的背景は‥‥
幕府は、外人の妻になっていた日本の女たちとその混血の子を海外へ強制追放した。寛永16年(1639)のことである。
追放先は異郷の地ジャガタラ。故郷との交流は年に一度、日本を訪れるオランダ船に託し手紙を出すことだけであった。この手紙を「ジャガタラ文」といっている。
知られているのに「お春のジャガタラ文」――(前記)‥‥かくうらめしき遠き夷の島にながされつつ、きのうけふとおもひながら、はや三とせの春もすぎ‥‥(後略)――
平戸生まれのコルネリアは自分の彫像を送っている。(平戸資料館)。こしょうという女性の文も知られる。
「日本こいしゃ こいしゃ かりそめにたちひて‥又とかへらぬふるさと‥‥あら にほんこひしやこいしゃ‥‥」(これは銘菓長崎物語のパッケージに使われているので、気をつけてみてほしい)余談だが、各地の銘菓は、選りすぐった物語が、ネーミングのゆかりになっているものが多いので、外装や栞をよく見てほしい。
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長崎の聖福寺にはジャガタラお春の碑、吉井勇の歌が刻まれた碑が苔むして建っている。平戸資料館にはジャガタラ文はじめ関連の資料が埋まっている。
ところで彼女たちのなんと手紙の筆跡や文章が素晴らしいことか。いろいろ説もあるが、当時の日本人は若くてもそれだけの素養を持っていた。