城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた地域。また櫨の実から木蝋生産、酒造業等の発生や、吉井銀と称された特異な金融活動で資力を蓄えた商人の町でその繁栄を誇った。しかし、その間明治初期までに3回の大火に見舞われた人々は、土蔵造りなどの家を構え、家造りに工夫を凝らして火災から家を守り、また町中にめぐらされた川や水路は当時の人々の生活を支えた。水に守られた町の人々は今日の緑と清流の景観を残し、国道210号、旧豊後街道筋に見事な町並みが存在し、西の倉敷と呼ばれている。
小さくまとまった城下町、一巡りするのに30分ほどだが、一軒一軒を覗くと深い。たっぷり時間が欲しい。
小京都にも登場する日田市は、豆田一帯が指定ゾーン。天領の町だがこの地域はかつての商家、町家が妍を競い、武家屋敷の残照はない。整然と町割りされた中に「長福寺」「草野本家」「岩尾薬局」などなど江戸時代から明治にかけての建物が懐の深さを物語る。
黒木地区は、黒木氏が拠った猫尾城の落城後、江戸時代に新たに町立てされ、久留米藩の在方町として発展した。明治11年の大火後に出来た町並みで、妻入二階建が続く。
入母屋造桟瓦葺を基本に、両袖に下屋を降ろす形式(居蔵造)を特徴とし、屋敷尻には土蔵が連担する。
福島は慶長6年(1601)に城下町として整備された。一国一城令で城がなくなった後も、周囲の豊かな農山村の物資の流通によって、久留米藩の中でも有数の在方町として栄えた。隆盛は明治以降も続き、現在の福島地区には、当時の繁栄を物語る江戸末期から昭和初期の伝統的な町家が、連続して数多く残っている。
江戸時代の宿場町「浜宿」の面影が残る、当時から酒造元が多い通りで、現在も数軒が醸造している。白壁土蔵が立ち並び、伝統的な景観を色濃く残している。この地区は昔から業種ごとに住み分けしていた名残で、町の雰囲気が変化に富み、独特の趣きがある。
湯の町と河口の港町・塩田津が合併して嬉野市になった。塩田津は長崎街道の海路の拠点であった。整然とした町割りの屋並の中に重文の西岡住宅や古い商家の杉光陶器店などが、江戸後期の面影を残し重厚さを添えている。さらに「塩田石工」の集団の手になる石垣、仁王像、恵比須像も加わって歴史的風致を醸している。鹿島の浜町も歴史ある港町の特色が残っている。
神代小路は、天正15年(1584)の九州国割を経て、慶長13年(1608)鍋島信房が初代領主となったことに始まる。城址の森と堀を兼ねた川に囲まれた武家地ならではの閉鎖的空間を有する。江戸中期の地割をよく残し、武家屋敷建築の母屋や長屋門が屋敷囲いを構成する生垣や石垣、水路などの環境要素とあいまって美しい町並み景観を醸し出している。
幕末に開港した外国人居留地時代に造られたオランダ坂の石畳や煉瓦塀のある地域で、主に旧長崎英国領事館、旧プロシア領事館東山手10番館が建ち並び、このほか明治から大正時代の洋風建築などが特異な歴史的景観を形成している。
幕末から明治23年の制度廃止まで続いた外国人居留地。なだらかな傾斜地に建てられた洋風建築や石畳が往時の景観を伝えている。大浦天主堂、旧グラバー邸など、重要文化財の建物が多く存在する。